●オックスフォード大学 オックスフォードだいがく
ヨーロッパ 英国 AD
イギリスにおける最古の大学。創立者をアルフレッド大王(9世紀後半)に帰する説もあるが,12世紀に始まりをおくのが普通である。オックスフォード市はロンドンの西北西約100km,テムズ川の上流(アイシス川)とその支流チャーウェル川の合流点にある。「雄牛(oxen)が歩いて渡れる所(ford)」の意であり,『アングロ=サクソン年代記』では912年にその地名がみられるし,中世初期には早くから羊毛市場として栄えたらしい。【設立】12世紀の後半には教師・学生の会合する場所となっており,彼らの若干はパリ大学を追放されたものであるとの説もある。初め学生は市中に宿泊し講義に通う形をとっていたが,市民たちの貪欲が彼らを学寮(ホール)での共同生活をとるにいたらせた。それがカレッジ=ライフの起源である。市との抗争は13世紀に入ると早々に始まっており,教会側は大学を支援する姿勢をとって多くの特権(その一つが世俗裁判からの自由)を付与した。国王側も大学の成長を助けたが,財政は苦しく貧困が発展を遅らせている。だが1220年代以降における托鉢修道士の来学は講義の質を高め,アリストテレスの復活とスコラ学の展開,また実験的方法の試みに指導的役割をとらせることとなる。グローステスト・ロージャ=ベーコンスコトゥス=ドゥンスらは本学を代表する学者であった。他方教師と学生との自治的団体としてのカレッジ(それぞれが独自の規則と特権とをもつ)ができ上がるのは13世紀末とされる。以後200年間にその多数が建設され,富裕な聖職者の寄進によって施設も充実し,大学の外容が整ってきた。主要なカレッジの創立年を示すと,13世紀に属するのがマートン(1264)・ユニヴァシティ(1280)・ベイリャル(1266)など,14世紀のものはクィーンズ(1340)・エクセタ(1314)など,15世紀ではオール=ソールズ(1438)・モードリン(1448)・リンカン(1427)など(16世紀以降省略)である。なお中世カレッジの実状は大学をすでに出た研究員(フェロー)のために確保されたものといえるのであり,卒業前の学生が入れるようになるのはエリザベス1世治世以後のことである。14世紀になるとジョン=ウィクリフの教説をめぐって重要な論争が繰りひろげられ,それとくびすを接するようにルネサンスの新風が到来,15世紀にはグロスター公ハンフリー(ヘンリ5世の弟)の収集した文庫の寄贈もあって新しい学問の台頭が認められる。グレイ・セリング・グローシン・リナカー・コレット・モアらの人文主義者はいずれも本学と結びつきをもち,エラスムスの来訪と滞在も認められる。宗教改革の及ぼした影響は大きく,修道院管理下のカレッジとホールは抑圧され略奪を受けた。1672年の審査律により大学の国教主義的立場が定まり,全構成員に対して“39カ条”の順守が迫られる(1871年まで実施される)が,17世紀半ばの内乱に際しては国王を支持し(市は議会側につく),1642年には宮廷がここに移り勤王軍の総司令部となる(1646年に議会側に占領される)。王政復古後は国教会と一体化し,体制内大学としての地位を固めるが,同時に沈滞の空気がひろがり時代遅れの学則にも助長されて,ジョージ3世の治世では最悪の状態に達した。フェローの地位が特定のものに限られ,しかも結婚を禁止されていたので優秀者が大学を去る結果となり,口述試験のみによる決定は学士号が数シリングで購入される不正を招いた。
【改革】19世紀に入ると革新の試みがおこり,弊風の多くが一掃される。筆記試験の導入,フェローを選ぶのに試験をもってする,彼らに結婚を許すなどがその著例である。また法学・歴史などの専門学部が発足する(以後増加の一途をたどる)。これは大学民主化の始まりともいえる。なお1830年から1850年にかけて教官・フェローを中心に国教会の革新運動(“オックスフォード運動”)がおこっている。第一次世界大戦による打撃は甚大であったが,戦後三つの大きな改革がみられる。それは[1]ギリシア語が必須科目でなくなる,[2]婦人に学位付与,[3]政府補助金の受容である。第二次世界大戦中は構成員の多数が軍に徴発され建物が戦争に使われた。現在では,市の商工業センターにしようとする勢いに対抗して,大学にふさわしい環境の維持,またよき伝統を守りながら同時に新時代への対応をも考えていくこと,これが本学の課題といえる。
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