●落人伝説 おちうどでんせつ
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【平家谷】戦いに敗れた武者などが山間離島の僻地に隠れ住んだという伝説。平家の末裔を称するものが最も名高い。平家の落人村は熊本県八代郡の五箇荘・宮崎県東臼杵郡の椎葉・徳島県三好郡の祖谷などの「平家谷」に代表され,北は宮城・秋田の各県から南は薩南半島・八重山群島に及ぶ。その数は150を下らないといわれる。落人伝説を持つ山間の村は多く隠田百姓村に属するが,この他にも平行弘の子孫を称し塩焼きを営んだ三重県度会郡の八ヶ竃,平家の落武者の裔と称する広島県三原市幸崎町のノウジ,大分県北海部郡海辺町のシヤアなど瀬戸内海沿岸の漂泊民の村,島根県那賀郡の木地屋の村のごとき,特殊な職能民が開いた村々がある。各地の隠田村の多くは戦国期から江戸初期にかけて開拓された武士の村であるが,本家を中心に同族の団結がきわめて強く,その結合の拠り所として平家の末裔の伝説が伝承されてきた。例えば島根県の戸倉峠の麓の落折は平経正の子孫を自称して住民すべてが平家の姓を名乗っている。石川県輪島市の時国家は平時忠の子孫と伝え,徳島県三好郡東祖谷村の阿佐家は平国盛の子孫と伝え,熊本県八代郡泉村の五箇荘の緒方家は平清経の子孫と伝える。徳島県那賀郡木頭村はすべての村人が平家の落人の子孫と称し,熊本県球磨郡五木村五家荘の住民もまた平家残党の末裔と名乗っている。【末裔の証明】平家の後裔を称するこれらの村では,源平藤橘などの貴族・武門の名家と同じく,血統の証明として系図や武具などを所持していた。しかしその系図は新しい書写が多く,必ずしも古い年代の証明にはなり得ない。また宝物はときに「あけずの箱」に秘匿された。「あけずの箱」は九州や南方の島に伝えられ,たとえば大隅半島の辺塚の島子家のそれには,日輪の扇,佐多岬に近い島泊の上籠家のそれには緞子(どんす)の布に包んだ七枚の紙,大隅半島南端の大原の神社のそれには刀3振と一文銭十数枚があったという。また安徳天皇の子孫と称する硫黄島の長浜家にもこの箱があったが,中身は幕末に薩摩藩の役人にもち去られたと伝える。これら物的な証拠のほかには,前代の風俗や言語などが遺存していることがあり,彼らの出自を特別のものとする証明となっている。しかしそれらも必ずしも本来的に平家と結びついたものとはいえない。平家にちなむ落人村の地名も,本来は無関係のものを付会した場合が少なくない。たとえば富山県東砺波郡の五箇山の「平」という地名は地形によってつけられたものであろうし,喜界島のモリは本来神の霊地を指す語であったものが,資盛・有盛・行盛らの名に結びつけられていったものであろう。前述した村人の姓に関しても,たとえば彼らのなかに多い「小松」姓は小松内大臣重盛に関連づけて語られるが,これも元来は神に仕える司霊者の「マツ」の称呼にちなむものであろう。
【御霊信仰と祖霊信仰】一般に平家村では餅をつかぬとか,胡瓜を作らぬとか,さまざまの禁忌が認められ,その原因を落人の非業の死に帰している。大島建彦は,それら落人がただちに村の先祖と結びついたものではなく,平家の落人伝説としてそれぞれの村や家に落ちつく以前,まずその霊(りょう)の祟(たた)りが恐れられ,次いでそれに先祖の俤(おもかげ)が纏綿(てんめん)したもの,すなわち祖霊(それい)信仰と御霊(ごりょう)信仰の習合する過程に落人伝説が定着したものとする。
【平家物語と怨霊の鎮撫】大島によれば,『平家物語』を語った琵琶法師(びわほうし)が御霊を鎮(しず)める役割を担っていたことは,落人伝説の方面からも明らかであるという。下関市の赤間神宮の境内には平家の七墓があるが,耳なし芳一の伝説はこの地に伝えられた。また安徳天皇の陵があるといわれる高知県高岡郡越知町千立野でも,同種の話が耳なし地蔵の由来として伝えられている。岐阜県大野郡丹生川村の平家谷,同県益田郡萩原町の平家栃は,平家一門とかかわりなく,座頭(ざとう)・瞽女(ごぜ)の『平家物語』の語りにちなみ,しかも彼らの祟りが恐れられたという。本来怨霊を鎮める座頭・瞽女が逆に怨霊の対象とされた例である。このように,平家の落人伝説は御霊信仰の影響を多大に受けたと考えられ,事実それらは御霊の活動の著しい地帯に多く伝えられているのである。
〔参考文献〕柳田國男『伝説』1940,岩波書店(『定本柳田國男集』5)
同『史料としての伝説』1957,村山書店(『定本柳田國男集』4)
大島建彦「落人伝説の意味」国文学解釈と鑑賞31〜33,1966,2
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