●織田信長 おだのぶなが
アジア 日本 AD1534 室町時代
1534〜82(天文3〜天正10)戦国・安土桃山時代の優れた武将である。尾張守護代織田一族の清洲織田家の奉行であった織田信秀の長男として生まれた。幼時,吉法師・三郎・上総介などと呼ばれ,法名は天徳院という。織田信長は,尾張国の那古野城で生まれた。1546年古渡城で元服し,1551年父信秀が亡くなったので,家督を18歳で相続し,1555年(弘治1)清洲城に移り住んだ。1560年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の一大奇襲作戦を強行して,見事に大敵の今川義元の大軍を撃破して,一躍天下に勇名を馳せた。1562年徳川家康と堅い同盟を結び,1564年浅井長政と同盟関係に入るころ尾張の統一をだいたい完成し,1568年9月には将軍足利義昭を奉じて京都に入った信長は,諸国の関所の撤廃を命じた。一方,将軍義栄(29歳)はこの年死去している。一時蜜月状態だった織田信長と将軍足利義昭とはやがて不和となり,信長に対抗するため将軍義昭は,武田・浅井・朝倉・三好・比叡山・本願寺・毛利などからなる反信長包囲陣をつくりあげた。この結果,さすがの信長も一時あぶない目にあった。しかし窮地にあって闘志をかきたてた信長は,思いきって1571年(元亀2)に有名な比叡山を焼き打ちして旧宗教体制を打破するとともに,1573年(天正1)には大敵の朝倉・浅井氏を打ち滅ぼし,1576年2月には築城が完成した安土城へ本拠を移動し,同1576年4月に京都において南蛮寺を建立した。この前後の1574年から80年にかけて,信長は一向一揆と本願寺を討ち破り,一方,武田氏との戦争においては,1575年長篠の戦いにおける信長軍3,000挺の鉄砲を使っての射撃戦で,同盟家康軍とともに武田の精鋭の騎馬軍団に壊滅的打撃を与えた。1582年3月武田氏の興亡を賭けた天目山の最後の戦いにおいては,武田軍内部の裏切りもあり,信長と家康の連合軍は,枯葉をまくようなめざましい進撃ぶりで,武田勝頼(37歳)の軍を打ち破り,勝頼は天目山において切腹し,武田三代の武運はここに燃えつきたのである。しかし信長には,まだ西方の大敵毛利一族の大軍が,信長との決戦を準備しつつあった。信長はここにおいて1577年以降戦ってきた毛利軍との決戦を企図してたちあがった。1582年において信長は,羽柴(豊臣)秀吉が一所懸命で高松城を攻略中という報告を受けて,秀吉軍を援助して一刻も早く毛利軍を打ち破ろうと,心せくままに出陣の準備をととのえ,1582年6月,京都の本能寺において,自己の信頼していた有力な部下の一人だった明智光秀軍の奇襲攻撃を受け,自ら弓矢を放って奮戦したが,手兵もやがて激減してきたので,もはやこれまでと決心し,本能寺に火を放ち,奥に退いて切腹したが,火中にあったため,信長の死体は,明智軍の懸命捜索にもかかわらず,焼け跡からついに発見されず,明智光秀の失望を招いた。これをのちに“本能寺の変”という。
つぎに信長の一生を要約してみよう。織田信長は,天才的な武将であるとともに,優秀な政治家であった。きわめて先見性に富んでいて,戦国時代の分裂から,天下統一への道をうまく切り開くことに成功した。 最初に信長は,尾張と美濃を自分の本拠地としていた。ここから日本全国の統一にのりだした信長は,1568年に矢銭(軍用金)を堺に課したりして,まず畿内の諸都市を把握した。また楽市楽座令を断行して商工業者を招き,これを握った。なお関所の撤廃と検地(指出)を実行した。支配理念としては,儒教思想を採用するとともに,軍事力をもつまでに肥大し堕落した寺院旧勢力との対抗手段としてはキリスト教を保護し,奨励した。南蛮寺も建設された。信長の戦術は,兵農分離を実行するとともに,馬廻衆を中心とする常備軍をつくりあげて,これを強化することに意を注いだ。とくに新兵器としての鉄砲を大量に使用,組織的に用いた。
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