●恐山信仰 おそれざんしんこう
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青森県下北地方の中央に位置する恐山をめぐる信仰。湯治を内容とする病気平癒の祈りと地蔵信仰を中心とする仏教経典思想が結びついて展開される代表的庶民信仰現象。【恐山信仰の歴史と展開】恐山信仰において,準経典的役割を果たしたのは,「奥州南部宇曽利山 釜臥山菩提寺地蔵大士略縁起」(「略縁起」)であり,これは,1810年(文化7)に木版印刷されている。これによれば,恐山菩提寺は慈覚大師円仁によって開かれ,ここには大師自ら彫刻した地蔵菩薩像が安置されていたが,のちに荒廃して社堂は毀れてしまった。そこで田名部の曹洞宗寺院・円通寺の開山が地蔵堂を再興し,一体のみ残っていた地蔵尊をここに祀り,これ以後,円通寺が恐山を管理してきた,とされている。この地蔵堂が,現在延命地蔵尊を中尊とする三尊地蔵尊を祀る本殿地蔵堂である。「略縁起」によれば,恐山信仰の歴史的上限は,慈覚大師の活躍した9世紀にまで遡るが,確実な文献史料によれば,恐山信仰の歴史的上限は,円通寺開山によって本殿地蔵堂が開かれた1530年(享禄3)より以前に遡ることはできない。寛政年間に書かれた菅江真澄の旅日記によれば,当時下北の人々は恐山のことを〈山の湯〉と呼んでいたと記されている。このことは,病気平癒を目的として恐山の〈山の湯〉へ湯治に行く人々の祈りと,〈抜苦与楽〉(苦しみを取り除き,楽しみを与える)という地蔵善薩の信仰とが結びついて,恐山信仰の基本的な二世安楽を願う信仰現象が形成されたことを示している。さらに,火山地帯がもつ特有な奇岩奇石の多い自然環境が起因となって,仏教の地獄思想が加わり,しだいに現在の恐山信仰形態が形成されていった。そして,この庶民信仰の形成過程において,下北の諸寺院や修験がこれに関与していった。慈覚大師伝承や読誦経典,儀礼にみられる密教的要素は,それを例証するものである。ことに恐山の管理をめぐって円通寺と争った天台宗の蓮華寺(廃寺)の影響は強く,ここに天台系の信仰形態を刻印したと考えられる。「略縁起」は,日本撰述の偽経『仏説延命地蔵菩薩経』をもとに(経典的信仰),下北の人々の願い(経験的信仰)を取り入れてつくられたものであるが,主たる信仰機能は,現世祈祷である。しかし,18世紀の菅江真澄の旅日記,明治期に書かれた幸田露伴の『易心後語』,大正期の日下部四郎の『信仰仏利二人行脚』などの記録からみると,恐山の夏の祭典には死者の供養が行われていたことが知られる。“死の儀礼”(死者供養・先祖供養)の行われる賽河原や卒塔婆供養堂の地蔵尊は,18世紀以降になってその形態を整えている。これゆえに,本殿地蔵尊に対する“生の儀礼”(現世祈祷)の他に,賽河原・卒塔婆供養堂の地蔵尊に対する“死の儀礼”が結びつくことによって,18世紀以降,現在の恐山信仰の形を整えていったといえよう。
【現在の恐山信仰】下北地方では,恐山参拝のことを「お山まいり」「恐山まいり」「春まいり」「夏まいり」「秋まいり」と呼んでいる。「春まいり」「秋まいり」は生の儀礼,「夏まいり」は死の儀礼が中心となっている。1955年(昭和30)以降,恐山の夏の祭典(7月22日〜24日)がマスコミに取りあげられた。そのなかで恐山は,“死者の山”“イタコの寺”などと紹介されてきたが,イタコは夏の祭典の期間に限って恐山に登ってきており,夏の祭典へイタコが参加したのは,昭和に入ってからである。また上述してきたように,“死の儀礼”は恐山信仰の一面にすぎない。しかし,近年この祭典に訪れる観光客は,信仰者を・かに上回っている。恐山の信仰者は,下北の人々を中心としているが,これに参加する人々は,おのおのがそれぞれの宗派に属しており,また恐山信仰者集団もそれ自身特別な信仰共同体を組織しているわけではない。信仰者達は,特定の事情によって,特定の時期,特定の祭典に,個人・家族または村落単位で参加するのであり,この信仰者達の組織は,未組織的信仰者集団といえる。恐山信仰は,下北の人々の日常生活における願い事の成就を目的とし,彼らの“経験的信仰”と仏教の「経典的信仰」とがダイナミックに結びついて形成された呪術・宗教現象といえよう。仏教の教理の面からみると,恐山信仰は理想的信仰ではなく,むしろ,迷信・俗信・異端に属している。しかし,日本人の仏教信仰の一つの代表的な具体的信仰現象であると思われる。
〔参考文献〕楠正弘『庶民信仰の世界』1984,未来社
楠正弘「庶民信仰におけるカミ」『神観念の比較文化論的研究』1981,講談社
楠正弘「庶民信仰における生死観」『仏教における生死の問題』1981,平楽寺書店
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