●オスマンリ主義 オスマンリしゅぎ
アジア トルコ共和国 AD
20世紀の初め,トルコの近代化のためにかかげられた政策を表明するもので,主として青年トルコ党が採用した。【多民族・多宗教】オスマン=トルコはアジアからヨーロッパ・アフリカにわたる大帝国であったため,民族的にはトルコ人をはじめ,南スラヴ系に属するスロヴェーン人,クロアティア人,セルブ人やギリシア人,ユダヤ人,アラブ人などがいた。それがまた,宗教的にも多様性をもたせることになり,イスラーム諸派,ユダヤ教,キリスト教諸派に分かれていた。これがオスマン=トルコの弱点の一つになっていた。
【改革】1830年にギリシアが独立し,エジプトの反乱が続き,やがて露土戦争(1877〜78)に敗れたことで,トルコはバルカン半島の大半を失っていき,大国の地位から後退しなければならなくなった。このような情勢のもとで,タンジマート=ハイリエ(恩恵的な改革の意)が進められた。それはまず,ギュルハネ勅令(1839年11月)に発した。勅令は信仰と民族の区別なく,全国民を平等に扱うことで,近代的改革をめざすものであった。改革はこの基本線に沿って進められ,1856年には改革勅令が発せられた。タンジマートは,あまりにもヨーロッパ模倣にすぎた集権国家の樹立を急ぎすぎたために,支持を得られず挫折したのであるが,オスマン=トルコのもっていた欠陥が指摘された点では意味があり,とくに,宗教や民族の相違を越えた国民を創設しようとしたことは意義が深い。
【オスマンリ】改革運動は統一進歩委員会をへて,1908年の青年トルコ党のクーデタに発展し,アブデュルハミット2世の専制を倒して憲政の確立にむかったが,統一進歩委員会が標榜し,政権を担当した青年トルコ党が唱えたのがオスマンリ主義(オスマンルルック)である。統一進歩委員会は「信仰と人種による差別のない全オスマンリの統一」をかかげ,青年トルコ党もそれを継承して,アラビア人,アルバニア人,シルカシャ人,クルド人などの支持を受けた。オスマンリとはオスマン人のことで,最初は,トルコ語を使用して,イスラームに帰依した国民を意味していた。しかし,改革運動や青年トルコ党が用いたときには,ヨーロッパ的な意味での近代的国民の概念が導入されており,言語・民族・宗教の差別なく,オスマン=トルコの人民をさすようになって,オスマンリの自由と平等の方向に進むのがオスマンリ主義となった。トルコ民族主義の芽ばえはここからおこったといってもよい。
【消滅】青年トルコ党は政権を担当するにしては,あまりにも未熟であり,また少数民族の利害が複雑でありすぎた。オスマン朝の圧政からの解放を説いたパン=アラブ主義に対してアブデュルハミト2世は,ヨーロッパ列強に対抗するための全イスラーム教徒の団結を訴えるパン=イスラーム主義を採用した。オスマンリ主義は宗教の差別を越える意味で,これに反対し,その専制政治を倒したが,オスマンリ主義のなかから,パン=トルコ主義(汎トゥラン主義)が成長してきた。汎トルコ主義は,中央アジアのロシアから避難してきたトルコ人によって唱えられたもので,青年トルコ党も汎トルコ主義に傾いていった。党がこのように動揺しているあいだに,1911年には,イタリアがトリポリに侵入し,1912年にはバルカン戦争がおこり,オスマンリ主義のもつ社会的意義は失われ,帝国の崩壊によって最終的に否定された。
〔参考文献〕羽田明『イスラム国家の完成』世界歴史8