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●オスマン=トルコ

アジア アジア AD1299 

 1299〜1922 中央アジアから移住したトルコ族のオスマン家によって,1299年アナトリアに建国されたイスラーム国家,最盛期には,アジア,アフリカ,ヨーロッパの3大陸にまたがる大帝国であった。1922年トルコ革命により滅亡した。

【概観】13世紀後半エルトゥルル=ベイが率いる部族が,ルーム=セルジュク朝からアナトリア西部のビザンティン帝国との国境地帯に封土を受けた。彼らはガージー集団を形成し,ビザンティン帝国への領士を拡大した。エルトゥルルの息子オスマンは,1288年族長となり,さらに領城を拡大し,ルーム=セルジュク朝が無力化したことにより,1299年独立を宣言し,オスマン国家となった。オスマン1世ブルサ攻略(1326)直前に没し,オルハンが継承した。彼はブルサに首都を遷し,さらに勢力を増大させ,ニカイアやニコメディアの主要都市をビザンティン帝国から奪い,さらにダーダネルス海峡を越えヨーロッパのガリポリを占領した。次のムラト1世は,バルカン半島への進出をはかり,1362年,アドリアノプールを奪い,翌年セルビア,ハンガリー,ワラキアのキリスト教連合軍をマリッツァで撃破し,さらにコッソヴオの戦いにバルカン諸国軍を破り,ドナウ以南を支配下に置いた。また,アナトリア地方のトルコ系君侯国の併合も推進され,ユーフラテス川以西がオスマン帝国の勢力下に組み込まれた。次のバヤズィト1世は,バルカン半島,アナトリアに君臨したが,中央アジアのサマルカンドから西方に進出したティムールのため,1402年アンカラの戦いで敗れ,オスマン王朝は一時断絶した。

 帝国の一大危機にメフメトl世が帝国の再建を成功させた。孫のメフメト2世は,オスマン国家のなかにとり残された形となったコンスタンティノープルを,1453年攻略し,ビザンティン帝国を滅ぼし,さらに,アナトリア全土統一をなしとけた。これ以降,コンスタンティノープルは,オスマン帝国の首都とされ,イスタンブルと呼ばれるようになった。セリム1世の治世には,シリア・エジプトを支配していたマムルーク朝を1517年に滅ぼし,さらに,メッカ・メジナも支配下に入れた。アッバース朝最後のカリフ,ムタワッキルからカリフの称号を譲られたといわれる。次のスレイマン大帝の時代にはオスマン帝国の最大版図を形成した。東方では,イランのサファヴィー朝と争い,タブリズ,バグダド,バラスを得,北方では,バルカン半島を占領し,1529年にウィーンを包囲した。さらに,地中海では,ロードス島の騎士団を征服,1538年プレヴィサの海戦でスペイン,ヴェネチアローマ教皇の連合海軍を破り,地中海の制海権を手に入れ,アルジェリアやトリポリを勢力下に置いた。

 その後,暗愚なスルタンが続出したが,ソコルル=メフメト=パシャや,キョプリュリュ家出身者などの名大宰相が出て帝国の衰退の表面化は,遅らせることができた。しかしカラ=ムスタファ=パシャが大宰相となり,第2次ウィーン包囲に失敗すると,オスマン帝国の弱体化は明確となり,ヨーロッパ諸国の圧力は強化され,1699年に締結されたカルロヴィツ条約は,オーストリア,ポーランド,ヴェネチアに対して領士割譲を許した。その後,17世紀初頭のアフメト3世の治世下には,チューリップ時代と呼ばれる西欧文化を導入した文明高揚期を迎え,一時的にオスマン帝国の衰退は停止したかにみえた。しかし,対外的に,1718年のパッサロヴィツ条約,内的にはイェニチェリ軍団の反乱などで,オスマン帝国の国力は低下を続けた。その後,ロシアの攻勢が続き,1774年キュチュク-カイナルジャ条約,1792年ヤッシー条約で,黒海北岸の支配権が失われた。また,1798年にはナポレオンがエジプトに侵入した。これらの事態に対し,18世紀末から,スルタンの側から,西欧化による改革運動が始められた。最初はセリム3世ニザーム=ジェディードと呼ばれる改革を行ったが,反対派の抵抗で挫折した。その後も多くの改革が続けられ,1839年のタンズィマート改革は,ヨーロッパ諸国の圧力に屈し,国内のキリスト教徒の権利保障を対外的に表明し,西欧化政策の推進をはかった。アブデュル=アジスの治世には,外債の激増のため,国家財政は破綻し,タンズィマート改革は,十分な成果を得ることはできなかった。1876年末ミトハト=パシャの起草による憲法が制定され,責任内閣制が導入され,オスマン帝国の国際的地位向上がはかられたが,1878年初め,アブデュル=ハミルト2世によって効力を停止され,専制政治が復活し,国力の低下,領土の喪失が進んだ。

 1908年,統一と進歩を中心とする青年トルコ人革命は,立憲体制を復活させたが,オスマン帝国の多民族国家としての問題を克服できず,かえって混乱を深め,ブルガリアの独立,オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合,トリポリ戦争バルカン戦争により,帝国領は,バルカン半島の一部,アナトリア,シリア,パレスチナに限定された。エンヴェルなどの三頭政治は,親ドイツ政策を推進し,第一次世界大戦に参加,1918年敗北した。1920年,セーブル条約がギリシア軍の西部アナトリア侵入という事態のなかで強制された。このため,ムスタフア=ケマルは民族解放運動を指導し,スルタン制を廃止し,1923年ローザンヌ条約を新たに締結し,トルコ共和国を成立させるにおよび,オスマン帝国は滅亡した。

【国家・社会】オスマン帝国は完成されたイスラーム国家といわれる。国家の基本法体糸は,シァリーア(イスラーム法)にある。スルタンは,政治的最高権力者として君臨した。中央の行政・外交・軍事の権限は大宰相に付与されその下に官僚体制が形成されていた。彼らは,すべてスルタンの奴隷の立場にあった。一方,法解釈の最高権威は,シェイフル=イスラームであり,その下のカーズィ=アスケルが司法長官として国政に参加し,地方の裁判を担当するカズィを管理下に置いた。カズィは,単に司法権の行使だけではなく,地方有力者で構成される地方議会を主宰し,地方行政をも担当した。この司法および宗教関係者は自由人の身分であった。一方,大部分のオスマン帝国臣民は,レアーヤーと呼ばれる農民であった。彼らは納税の義務を負っていた。また,都市民は商工業に従事し,イスタンブールの住民は税・兵役の義務を免除されたように,特権を与えられていた。非イスラーム教徒は,各々宗教別にミレットを構成し,その内部で各宗派別の慣習・法律が認められていた。ヨーロッパ系の外国人にはカピチュレーションによつて,その身分は保障されていた。このように,オスマン帝国内の非イスラーム教徒は,被支配者としての地位に甘んじなければならないものの,独自の諸活動が保障されたと見ることができた。しかし,19世紀以後,ヨーロッパ諸国はオスマン帝国内のキリスト教徒保護を名目に,内政干渉を強めていった。

 兵制は,ティマル制(軍事封土制)にもとづくスパヒーが,オスマン軍の中核であった。また,キリスト教徒からの徴発者によって構成されるイェニチェリ軍団もオスマン軍の特徴である。これら以外にも不正規軍団の存在がみられる。西欧化政策に進むと,ヨーロッパ式軍隊も導入されセリム3世ニザーム=シェディドが有名である。しかし,オスマン朝軍はスレイマン大帝期以後,しだいに弱体となり,末期には,完全な混乱状態になっており,戦闘能力も士気も低下していた。

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