●オーストリア併合 オーストリアへいごう
ヨーロッパ オーストリア共和国 AD1938 オーストリア共和国
1938年3月13日,ナチス=ドイツによるオーストリア共和国の合併をいう。【第一次世界大戦後】第一次世界大戦に敗れたドイツ,オーストリアは,ヴェルサイユ条約とサン=ジェルマン条約で,両国の合併を禁止された。しかし,同一の民族が合併を望むのは自然であり,民族自決の原則からその実現を希望する声は根強かった。ことに,ハンガリーやチェコスロヴァキアを失って,人口650万人程度の国家となったオーストリアでは,国家を維持していくことが困難と考えられ,ドイツとの統一を期待するドイツ人が圧倒的であった。ドイツでも,1933年,ヴェルサイユ条約の打破と大ドイツ帝国の復活を呼ぶヒトラーが政権を握ると,オーストリアへの働きかけが活発になった。
【ドルフスの暗殺】ナチス=ドイツの動きを警戒するオーストリアでは独立維持の世論が強まってきた。1918年以来,共産主義と対決し,キリスト教社会党と結び,上層部の支援を受けて,社会民主労働党やその行動隊である共和国防衛同盟に対立してきた護国団は,キリスト教社会党のドルフスを推し,ドルフスは左翼主義とナチス=ドイツの前線として組織されたオーストリア=ナチス(国家社会党)の両者に対決して,独立を維持するために,1933年3月7日,クーデタで政権をとり,議会を停止して,独裁制をしいた。弾圧を受けたオーストリア=ナチスは1934年7月25日,武装して首相官邸に乱入し,ドルフスを暗殺して,合併をすすめようとしたが,オーストリアのドイツヘの合併に危機感をもったイタリアとドイツの関係が最悪になったことなどから,合併は実現されなかった。
【シュシュニックの登場】クーデタのあとを受けて,内閣を組織したシュシュニックは,しだいに強まるドイツの圧力に再軍備をもって対抗し,あくまで独立を維持する方針をとった。そのバックとしては,独墺合併を危惧する国際的な力,とりわけイタリアを頼りにしていた。しかしイタリアは,地中海問題やスペイン問題でイギリスやフランスと対立し,エチオピア侵入を機にドイツに接近していった。このような事情の変化に,シュシュニックは独立維持政策をとりながらも,1938年2月のヒトラーとの会談によって,オーストリア=ナチスの合法性を認めざるを得ず,同党の政治犯を釈放,内相にザイス=インクヴァルトを任じたのを始め,4人のオーストリア=ナチス党員を入閣させた。シュシュニックはその一方で,同年3月,国民投票を行って独立か合併かを問うことを発表した。ナチス支持者の年齢は若かったので,24歳以上の投票を不満としたヒトラーがベルヒテスガーデンの山荘でシュシュニックと会談した結果,シュシュニックの辞任が決まった。
【ドイツ軍の進駐】1938年3月11日,首相に就任したザイス=インクヴァルトは,形式上はオーストリアが要請した形をとって,翌12日に,ドイツ軍のオーストリア進駐を認め,すでに国境に集結していたドイツ軍が入って,両国とも,正式に合併を宣言した。オーストリア大統領ミクラスは3月13日辞任した。ドイツはオーストリアを大管区とし,その総督にザイス=インクヴァルトを任じた。オーストリア併合には,ウィーン出身のヒトラーの心情も働いていたし,生活圏の確保を主張していたナチスの政策も支えになっている。オーストリア併合後,ドイツはズデーテン地方のドイツ人問題を口実にして,チェコスロヴァキアを,ダンチヒへのポーランド回廊をとらえてポーランドに侵入して,第二次世界大戦を迎える。東方に大帝国建設をめざしていたといわれる膨張政策の第一歩であった。
〔参考文献〕A・J・P・テイラー,吉田輝夫訳『第二次世界大戦の起源』
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