●オーストリア=ハンガリー帝国 オーストリア=ハンガリーていこく
ヨーロッパ オーストリア共和国 AD1867 オーストリア=ハンガリー帝国
オーストリア=ハンガリー二重帝国とも呼ばれ、普墺戦争に敗れたオーストリアが国家を再編成して、1867年に成立し、1918年、第一次世界大戦に敗れるまでつづいた国家。
【妥協問題】オーストリアは1861年、中央集権化をはかる二月憲法を発布したが、国内の諸民族は強くこれに反発した。ハンガリー出身のベルクレディはドイツ人とマジャール(ハンガリー)人の融和に努力し、チェコ人などよりも優越した民族的地位を得ようとした。1866年の普墺戦争に敗れたオーストリアは、ドイツ人、マジャール人、スラヴ人、イタリア人などの多民族国家であった弱点が表面化して、ドイツ人の支配権が危機に直面した。ドイツ人はマジャール人かチェコ人(スラヴ系)との妥協(アウスグライヒ)を迫られた。このさい、ベルクレディ以来のドイツ人との融合策をとってきたマジャール人が一歩先んじ、それをチェコの指導者デアークが承認して、1867年10月にオーストリア=ハンガリーとして成立した。
【構成】オーストリアは旧17州を領土とし、ハンガリーは王国となって、10世紀のイシュトヴァン聖王時代の領土をその範囲とする。それぞれは独立した国家で、オーストリア皇帝(フランツ=ヨーゼフ1世)がハンガリー王を兼ねた。それぞれが政府・議会・法をもつが、外交・戦争・財政については共通していた。双方の議会から選出された60人ずつの代表が共通利害問題を討議した。最初の首相はオーストリアがアウエルスペルク、ハンガリーはアンドラーシであった。
【国内問題】多民族から構成されていたのに、マジャール人とだけ妥協してできた国家は、当然、民族問題に悩まされた。諸民族、なかでもスラヴ系のチェコ人は民族の権利を主張し、自治の拡大を要求してきた。パン=スラヴ主義によるロシアの勢力拡大と結びつくのを警戒しながら、ある程度の妥協を迫られたターフェ内閣は、1868年5月に、市民原理による結婚を認め、1907年1月には普通・平等・直接選挙制度を公布した。しかし、オーストリアらしい妥協は言語令である。1867年には、マジャール人と同等の権利を要求するポーランド人に対し、ガリツィアでの公用語をポーランド語とし、1882年には、ボヘミア、モラヴィアでのチェコ語公用化を、1897年には、特定地域におけるドイツ語と民族言語の同等性を認める政令がバデニ内閣によって発せられた。これらに対するドイツ人からの反発は強く、バデニ言語令は1899年に廃止されている。オーストリア=ハンガリーは産業の発展、推進につとめた。工業化政策はしかし、結果的には、ドイツ系大市民の保護となり、民族問題を引き起こし、工業化のなかで躍進してきたオーストリア社会民主労働党にも、民族問題を課題にさせた。
【対外政策】オーストリア=ハンガリーの国際的地位は、かつてのハプスブルク帝国と比較すると、明らかに低下していた。オスマン=トルコに代わって、ロシアが圧力を加え、国内のスラヴ系民族にも、パン=スラヴ主義に同調する動きがでてきた。これが対戦国であったドイツに接近させることになるし、ビスマルク路線上で、東方問題に対処させることになる。1873年、フランツ=ヨーゼフ1世はドイツのヴィルヘルム1世、ロシアのアレクサンドル2世と三帝同盟を結んだ。ベルリン会議の結果、三帝同盟が後退すると、1879年10月には独墺同盟が結ばれ、1881年には三帝同盟の復活、1882年5月の三国同盟結成へと、ターフェ内閣のドイツ協調外交は進展し、1883〜85年のブルガリア問題に臨んだ。このパン=ゲルマン主義政策は、1907年のボスニア、ヘルツェゴヴィナ両州をトルコから合併させはしたが、ロシアやセルビアのうらみを買い、第2次バルカン戦争で、ブルガリアの側についたことで、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアなどをロシアに接近させた。1914年6月28日、フェルディナント皇太子夫妻がセルビア青年によって暗殺されたサライェヴォ事件で、第一次世界大戦が始まるが、これもパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立がもたらしたものである。第一次世界大戦は三国同盟側に立ち、敗戦によって、ハンガリーを初め、チェコスロヴァキアなどが独立し、カール1世(ハンガリー王としては4世)が退位して、領土は4分の1、人口は約650万人のオーストリア共和国となった。
〔参考文献〕H.コーン、稲野他訳『ハプスブルク帝国史入門』
矢田俊隆『近代東欧の自由と民族』
