●オーストリア継承戦争 オーストリアけいしょうせんそう
ヨーロッパ ヨーロッパ AD1740
1740〜48 オーストリアのハプスブルク王家の家領相続をめぐる紛争に端を発しておこったヨーロッパ諸国間の戦争。【前史】オーストリアでは1713年の国事詔書(プラグマティッシェ=ザンクツィオン)により,ハプスブルク家領の不分割と男系断絶の場合の女系相続が定められた。これはヨーロッパ列強の承認も得ていたが,1740年,カール6世が没して長女マリア=テレジアが家領を相続すると,バイエルン選帝侯が自らの相続権を主張してこれに異議を唱え,他方プロイセン国王フリードリヒ2世は,マリア=テレジアの相続を承認する代償として,プロイセンに接するハプスブルク領シュレジエンの割譲を要求した。そしてマリア=テレジアがこれを拒否すると,フリードリヒは武力に訴えてシュレジエンを奪取しようとしたのであった。
【戦争の経過】戦争はプロイセン軍のシュレジエン侵入をもって始まるが(第一次シュレジェン戦争,1740〜42),バイエルンも直ちにオーストリアを攻め,さらにフランスもオーストリア領ネーデルランドの併合を狙ってプロイセン-バイエルン側に参戦した。オーストリアは軍隊を整える間もなくシュレジエンをプロイセンに,またボヘミアをバイエルン−フランス連合軍に占領され,皇帝位もバイエルン選帝侯(皇帝カール7世,在位1742〜45)に奪われて,当初はまったく孤立無援であった。オーストリアはイタリアでもスペイン−ナポリ連合軍の攻撃を受け,オーストリア領ネーデルラントもフランス軍に占領されてしまったのである。しかし1742年にプロイセンが,シュレジエンの領有をオーストリアに認めさせたブレスラウの和約で戦争から身を引き,他方イギリスが海外植民地をめぐるフランスとの対抗関係からオーストリア側について参戦したために形勢が変わる。ハンガリー軍の支援を得たマリア=テレジアは反攻に転じ,オーストリア本国とボヘミアでバイエルン-フランス連合軍を破り,1743年には逆にバイエルンを占領,西部ドイツのゲッティンゲンにおけるイギリス軍のフランス軍に対する勝利にも支えられて,1744年にはライン河を越えてフランス領アルザスに入る。そして海外ではイギリス軍がアメリカ・カナダでフランス軍を破ったのである(ジョージ王戦争)。オーストリアの反攻にシュレジエン喪失の危険を感じたプロイセンは,1744年再びフランスと同盟してボヘミアに侵入(第2次シュレジエン戦争1744〜45),これに対して,オーストリアはイギリス・オランダ・ザクセンと同盟して対抗する。1745年にはバイエルンの皇帝カール7世が没し,バイエルンはフュッセンの和約を結んで戦線を離脱,マリア=テレジアの夫フランツ1世が皇帝に選ばれて帝位は再びハプスブルク家に戻った。この形勢をみてプロイセンも1745年末にドレスデンの和約でオーストリアと講和し,シュレジエンの確保と引き替えにプラグマティッシェ=ザンクツィオンとフランツの帝位を承認したのである。これ以後戦争はスペインと結んだフランスと,オーストリア,サルディーニア,オランダと同盟するイギリスの戦争となるが,ロシアが介入する動きを示したため諸国は和平にむかい,1748年10月にアーヘンの和約が結ばれてオーストリア継承戦争は終わる。
【結果】アーヘンの和約によってオーストリアは帝位と大国としての地位を守りえたが,プロイセンのシュレジエン領有は認めざるをえず,プロイセンはこの武力による成果によってヨーロッパ列強の一角に食い込むことができた。他方フランスはオーストリア領ネーデルラント奪取の野望をくだかれ,海外においても何物も得るところがなかった。しかしシュレジエンをめぐるオーストリアとプロイセンの対立,また海外植民地をめぐるイギリスとフランスの対立関係は解消せず,その決着がついたのは,ほぼ10年ののちにおこる七年戦争を待たなければならなかったのである。