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●オーストリア

ヨーロッパ オーストリア共和国 AD 

 オーストリア共和国 Republic of Austria オーストリア人が自国を呼ぶ名エスターライヒ(Osterreich)は,もとより「東の領地(くに)」を意味するドイツ語で,Ostarrichiを語源とする。神聖ローマ帝国の第二代皇帝オットー2世(955〜983)が976年に,後世にいうところの東方辺境領を設定し,シュワーベン公の一族バーベンベルク家初代のルイトポルト1世を,その辺境伯に任命した現国土の東北部こそは,オーストリアという名の発祥した故地であるが,その比類なき地理的位置と,ときを閲するにつれ勢いを加えていく辺境伯家の努力や強運に助けられて,かつて物の数でなかったOstarrichiも無視できぬ政治勢力へと発展していったものである。すでに11世紀には,ドイツ・チェコ・ハンガリー・バルカン=スラブ・北イタリアなどおよそ考えうる限りの最も多様な隣人に取り巻かれて,それらが相互に最も多様な文化的交流を現出する,その不可欠の媒体となっていたのである。この文明の十字路を行きかう商人や巡礼の群によってとみに殷賑の度を加え,かつ視界も飛躍的に拡大すれば,かなり早いころから郷土的自覚,否,強国の自信に近いものさえ目醒まされるのに不思議はない。バーベンベルク家の隆盛は,かくて,レオポルト3世(1095〜1136)のとき絶頂に達するのだが,皇帝ハインリヒ4世の王女なる妃の縁故でさらにシュタウフェン家と結びつく。ザリエル朝の死に絶えたとき,西欧キリスト教世界最高の帝冠がレオポルトに,賢明にも辞退したとはいえ,差し出されたのも,国土こそ依然として小さいにせよ,Ostarrichiの声望がそれだけ大きかったことの雄弁なあかしなのではなかろうか。だが,それだけではなかった。レオポルトのもうけたたくさんの子供たち。彼らはそれぞれ婚姻により,チェコ,ハンガリー,ポーランド,バイエルンなどへと系譜の網をひろげていった。しかも,そのほかにザルツブルク司教コンラートならびにフライジンクの司教オットーという2人の聖職者を生んだ。ことに後者は,盛期中世最大の歴史家としてその名は不朽である。そしてこのころ,12世紀も半ばにかかってついに中世ローマ帝国(ビザンツ)の皇帝家と姻戚関係を結ぶまでにいたるのである。「第2の民族移動」といわれる動乱期に,10世紀を中心とするマジャール族の爆発的な西欧侵入が,イスラームならびにノルマンのそれとならんで,キリスト教世界を震憾させたことは周知であるが,そもそもドナウ河からアドリア海にかけて帯状をなす辺境領群の設定も,この衝撃に耐え,混乱から体制を立て直そうとする西欧世界再編の苦悶であった。ところが,このマジャールの脅威はビザンツをも根底から揺り動かしていたのであって,1143年登場したパライオロゴス朝東ローマ皇帝マヌエール1世は,西方世界に対するそれまで慣例だった傲慢な拒否の姿勢を,もはや受け継がなかった。むしろ東西両帝国の歩み寄りを策すための外交戦を展開した結果は,コーラート3世帝を取り込むばかりか,バーベンベルク家との血縁にも繋がることとなったのである。ならば他方,シュタウフェン家においては勿論,ここでも,古代ローマからの血脈がことさら強調されるにいたるのは,当然の成行きであろう。いわゆる12世紀ルネサンスも,そうした意味では,オーストリアの故地をも巻き込む運動だったのである。ところでローマ世界へと繋がろうとするそのような伝統意識を支える基軸となるのは,ローマ帝国の没落期に国教たるキリストの福音を属州ノリクム(オーストリアとボヘミアの一部)の地に宣べ伝えたセヴェリーヌス(482年客死)の故事であって,6世紀初頭のその伝記が,まさにレオポルト3世の時代に,目をみはらせる熱意をもって,書写され普及したこと自体に,歴史意識の昴揚がうかがわれたものであるが,いうまでもなく,12世紀にいたり王族である大歴史家フライジングのオットーが,真摯な歴史研究の照準をそこにねらい定めるとき,祖国の文化的伝統に関してのその歴史認識には比類なく厳正なものが加わったはずである。すると古典の伝統に連なろうとする時代の要請に応じて,たとえばOstarrichiに関しても,そのラテン語による名称Austriaが当時通用してくるのだが,フライジングのオットーの著作に限っては,この名称がまったくもって顔を出さない。その理由は何だったのか。まず一つにはAustriaがその昔,広く東フランクなどを意味しており,これに彼もよっていたらしいこと,次にはそれに代わりOriens(東方)の語を用いているのだが,これは当時むしろビザンツをこそ意味するとして使用がはばかられていたのを,東ローマへの卑下をいさぎよしとしない彼がためらうことなくこの優雅な文語をかえって愛用したこと,そして最後には,Austriaからラテン語auster(南の)が直ちに連想されるため,それはこの地がボヘミアとメーレンの南に横たわるためだとする説が盛んに行われることにもなるのだが,そのまぎらわしさを避けたのかも知れないということ。以上のような諸点が一応考えられるであろう。いえることは,彼が東フランクを意味するものとしてのAustriaをイメージするときは,自身バーベンベルク家の一員として,国家の伝統圏域をのみ思い描く旧套を墨守したらしいということである。しかし,その後(1156)公領に昇格したオーストリアが,南方に大きくひろがるスタイエルマルク公領を併合し(1192),バーベンベルク家の後継ぎが絶えた空位時代(1246〜82)には貴族たちの推したボヘミア国王プシェミスル=オットカル2世の手でさらに南のケルンテン・クライン両公領などを加えた。ハプスブルク家時代になると,ティロルが転がり込む(1363)ばかりでなく,マクシミリアン1世(1493〜1519)の場合,ブルグンド王女との結婚によりオーストリア=ハプスブルクの家領としてドイツの東西に巨大な両翼をひろげる形となってきた。19世紀初頭にやっと仲間入りするザルツブルク司教領を除いて,アルプスの彼方からウィーンの彼方に及ぶ諸領地の頭上に大きく支配の虹を描いたAustriaは,以前のそれとは比較を絶するオーストリアだといわねばならない。否,好敵手ルクセンブルク家の退場に伴って,以後,神聖ローマ,ハンガリー,ボヘミアの帝冠や王冠を次々にハプスブルク家一族がいただくところとなるのである。お家芸の結婚政策がスペインまで巻き込んだ結果は,マクシミリアン1世の帝冠を継ぐ皇孫カール5世の代におよんで,ヨーロッパのほぼ全域を股にかけることになった。ドナウ河畔の眇たる一辺境伯領の呼称が今や世界大規模の超国家的権力の象徴となって,Casa de Austria(アウストリア家)ととくにスペイン語で呼ばれるようになったのである。面目を一新した「アウストリア」は,けだしスペイン世界帝国と同義なのであって,むろん新大陸を含むであろう。1606年ペルーを船出した航海者が太平洋に発見した島にCasa de Austriaに敬意を表したAustrialiaの名を献じたことが(コロンブスの場合とよく似た錯覚なのであるが)オーストラリア命名に由来をなしたことも思い合わせれば,これはまさに地球的規模の話であろう。

【ハプスブルクと東方の鎮め】「普く世界を統べるはオーストリアにこそあれ Austriae est imperare orbi universo.」標語(モットー)の頭文字を連ねたAEIOUなる符牒をそのもち物というもち物に刻みつけていた王者がいた。フリードリヒ3世(1452〜93)である。ハプスブルクの歴史において,これ以上謎ふかい人物もまたとないとされるが,兄弟や廷臣さえ含む内外の敵をむこうにまわして呆れるほどの無能と無為に終始しながら,どの敵よりも長く生きのびるという徹底的に鈍重な待ちの姿勢で,まずオーストリア公領を大公領に昇格させた(1453)のを手始めに,王子マクシミリアン1世を,ブルグント王女の伴侶とすることにより,ハプスブルクの勢威がほどなくヨーロッパ全域をおおう道筋を,それと意識しないで,つけていたことになる。そしてこの考えの無意識でのいわば運命的な確信こそが,上記の標語だったわけである。ただ,縷言するように,そこにいうAustriaは,古来のオーストリアとは別の気宇壮大なもの,この国とは無縁なハプスブルク特有の神秘的幻想的な帝国的運命観をもち込んだものであった。まるでその運命が摂理により実現されるかのように。さらにブルグント宮廷文化の理念やスペインの「レコンキスタ(国土回復運動)」的伝統さえもが加わって,カール5世の世界帝国へと結実していくことはすでに触れたが,そうであるなら,固有のオーストリアは,そのことにより少しも悪い影響を受けなかったであろうか。フランドルに生まれたカールが,瓢箪から駒のかたちで舞い込んだスペインの王冠を受けるためイペリアに赴いたとき(1517〜20),カスティーリャ,アラゴソヘの無理解がたちまち反乱を招いたこと(1520〜23)は有名な史実であるが,はたしてオーストリアについての理解はあったであろうか。実は,そのおそれを十二分に裏書きするような取り決めが,スペイン生まれの弟フェルディナンドとのあいだで1521年には結ばれているのである。それぞれ仕組みと成り立ちを異にするさまざまな構成部分の雑多なモザイクをなすという点で,今や昔日のオーストリアと少なくとも規模の上では同じとはいえなくなったこのcasa de Austriaを維持するために,兄弟のあいだでの支配の分割は不可避の情勢となったのであるが,くだんの取り決めでは,王弟にあてがわれたのは,上・下オーストリア,シュタイエルマルク・ケルンテン・クラインの5公領であった。ということは,カールがスペイン・ブルグント・王朝発祥の地ライン河上流地帯はいうにおよばず,ティロルからアルプスを越え北イタリアをへてアドリア海への出口をうかがう大オーストリアのいわば生命線までをも手中にすることである。ただし,分割のもたらす難点が王家の弱体化をすすめるということが表面的にはおとなしかった王弟側から頑強に主張された結果,翌1522年ブラッセルの秘密協定では,アルザスからハンガリーとの国境にいたる「オーストリア領土(ヘルシャフト)」全域がフェルディナンドの手にわたることになった。カールには,たまたま1519年祖父帝マクシミリアン1世の死去に伴い選ばれて手にした帝冠と,イタリアの領地をも含むスペイン王国,ならびにブルグントの世襲領だけが残されたのである。その帝冠にしても,フェルディナンド(l世)が1556年には戴いて,カールの後継フェリぺ2世が,たとえキリスト教世界に大号令を発するとはいえ,あくまでスペイン国王としてはオーストリアの地に足を踏み入れることはないであろう。いや,1526年モハーチュの戦いにおいて,オスマン=トルコの前にハンガリーが国家的独立を失い,ヤギェウォ家出身のボヘミア=ハンガリー王ルードヴィク2世(ラヨシュ)2世も戦場の露と消えて,そのあとボヘミアの王位,さらにスロヴァキアやクロアティアの一部など薄皮を残すのみになった。とはいえ,ハンガリーの王位も,フェルディナンドが巧みにこれを引き受けることになったのである。キリスト教世界の最前衛という辺境伯領以来の重責は,装いも新たに再びオーストリアの双肩に担われたことになる。スペインを抱え込むことで西に傾きすぎた重心は,東における忽然たる第2帝国の成立により期せずして旧に復しえたのであった。さて,トルコと面々相対して,ウィーンは今や敵前に位置する辺境都市である。危機は急速に訪れた。第1回ウィーン攻囲(1529)である。カールも救援に駆けつけたが,からくも守り抜いて,以後,にらみ合いのまま,第2回の攻囲(1683)に見舞われるまで,この首都は,たえずトルコの影におびえる張りつめた空気のなかを生きてきたといってよい。ただし,この文明の十字路は,たとえバルカンを奪われたにしたところで,直ちにバルカンとのかかわりを断たれるほど,単純なものではなかった。ことにトランシルヴァニアは,いぜんハンガリー系領主を戴く侯国として反ハプスブルク新教徒の牙城であったから,いきおいオーストリアの国内事情と深く絡み合ってこざるをえない。だが,もともとフェルディナンド1世以来,オーストリアにはある独得な寛容の風土があったことも事実なのである。それがそもそも多民族の結晶体たるこの国土を統一する絶対条件だったし,フェルディナンドも宗教問題には不干渉を旨としていた。ましてその息子マクシミリアン2世(1564〜76)となると,フェリペへの反発からも,尊大なスペイン風カトリシズムとは裏腹の,すこぶる宥和的な新教徒対策が多大な影響を貴族のあいだに及ぼすのである。皮肉にもこの政策は,スペイン帰りの息子(プラハにマニエリスムの華を咲かせた文化人だが政治的には無能)のルードルフ2世(1576〜1612)の手で対抗宗教改革(ゲーゲンレフォルマチオン)の方向へと無謀な舵きりがなされたため,かえって混乱を助長し,それも遠因となって三十年戦争(1618〜48)の勃発をみるのである。直接の火種ともいうべき不寛容の権化,フェルディナンド2世が,その緒戦,プラハ郊外の白山(ビーラ・ホラ)の会戦(1620)で,新教軍を殲滅したことは,没落(デカデンシア)の坂を転がりはじめたスペインに代わって,オーストリアが全ハプスブルク家領のカトリック対抗宗教改革ならびに絶対主義確立の主役となるの狼煙であった。もっとも,三十年戦争の惨禍は,オーストリアこそほとんど無傷だったとはいえ,ボヘミアをはじめドイツ一円に壊滅的打撃を与えたから,神聖ローマ帝国は形骸を曝すのみになってしまった。一応これとは切り離された形でのオーストリア家領の再統一(1665)とならざるをえないであろう。それだけではない。宗教戦争変じて列強の覇権争いとなりはてたこの大戦の結末は,ハプスブルクとブルボンが対決する構図の出現であって,マドリー,ウィーン両極を中心に順風と逆流がせめぎ合ってきた16世紀末の風景からは大きな様変わりである。ましてや18世紀早々,スペインがブルボンになるとあっては,二極構造そのものが早晩崩壊の運命にあることになる。だが,このような新情勢に新たな主役を演ずることになるオーストリアの存在証明は,やはりあくまで東方の鎮めという建国以来のキリスト教世界の負託に十二分にこたえることでしかなかった。1683年,反ハプスブルクのハンガリー民族(クルツ党)と同盟する形で大軍を発したトルコが,ウィーンを再度重囲のながに孤立させた存立の危機こそが,その天王山で,累卵の危機を救った殊勲の第1は,ポーランド王ヤン=ソビエスキに帰せられる。攻囲の挫折によりトルコも欧州制覇の野望を放棄し,1699年カルロヴィッツの和杓では,ハンガリー,トランシルヴァニアの領有によるオーストリアの中・東欧制覇が確立したのであった。この関門を乗り越えることによって今や敵前辺境都市たることをやめたウィーンを中心に,18世紀の華麗なるバロック文化が,西欧のパリとならび,絢爛と咲き競うことができたのである。

バロック・ウィーンの栄華と凋落】ヨーロッパが一丸となって存亡の危機から救ったウィーン。それはオーストリアの首都でありつつ,世界のウィーンでなくてはならない。たとえば,そのバロック文化の最大の後援者,当代オーストリアの栄光を一身に具現した観のある勇将サヴォア公オイゲン(1663〜1736)は,その血統をたどれば,ヨーロッパ中ほとんどくまなく,凡庸ながら人をみる目はあったレオポルト1世(1667〜1705)に見出されるや,身近なブルボンならぬハプスブルクにかえって仕えて,対トルコ戦に,スペイン継承戦役にと東奔西走,ヨーゼフ1世をへてカール6世(1711〜40)の代にまで及んだ。こうした国際性こそ,オーストリア文化の象徴といえるであろう。そのカール6世も,一時擬されたスペイン王を諦めて帰国したとき,騎兵連隊をはじめスペインにまつわるあれこれを,ウィーンにもたらしたから,その宮廷文化にイベリア風の大仰さをさらに加えることになった。バロック建築熱による浪費をはじめ,イエズス会の独善,特権階級の搾取と肥大など,社会の暗黒面は,ハンガリーにラコーツィなどの独立運動を誘発して,かの地の新教徒に膝を屈する結果となった。むしろ時代に即応したのは,トルコの脅威が去ったのち,ウィーンの戦後再建に集まった市民たちや下層貴族で,この階層から官僚組織と常備軍という近代国家の鍵が差し出されるにいたる。歴史のこの大きな曲がり角こそ実にマリア=テレジア(1740〜80)登場の舞台だったのである。ところで,うら若き女の身空での登場がいかに孤立無援であったかは語り草であるが,ハンガリー貴族の後楯をとりつけた上,不倶戴天のプロイセン王フリードリヒ2世との死闘を演じて,七年戦争ではフランス・ロシアと結ぶことにより宿敵を窮地に陥れたばかりか,この間,国内百般の改革でも治績をあげ,あわせて16人もの子宝に恵まれたのは,見事という以上に驚異であった。英明なる女丈夫のもと,程よい啓蒙に光被されて,国民は和気藹々としてよき時代を謳歌しえたのである。オーストリア人にとり,永遠にかえらぬ古きよき時代とは,おそらくはこの稀有な至福の瞬間をいうのではないだろうか。君臣の絶妙な均衡は次の代,ヨーゼフ2世(1765〜90)になるともう崩れてくる。国民への献身ゆえに,君主に家庭の幸福は許されないとする真摯な善意にもかかわらず,国民に愛される君主はそこにはなかった。あるのは寒々とした人間不信の理性と君主から断ちきれた自立する国家であって,ヨーゼフの死の前年には,妹マリ=アントワネットの嫁ぐフランスにおいて,王朝への不吉な弔鐘が打ち鳴らされるのである。やがてウィーンにもナポレオン軍がなだれ込むが,ラインラント人メッテルニヒの老獪な外交は面従腹背,敵をロシア遠征による自滅へと誘い込み,解放戦でも巧みに主導権を握るのである。結局,秩序の撹乱者の封じ込めによるヨーロッパ秩序の再建こそは,この汎ヨーロッパ的視野を身につけた国際人,多民族国家オーストリアの宰相にはまさにうってつけなウィーン会議の大立者の目的とするところであった。正統主義の旗のもとにあえて反動の悪役を身に引き受けたのも,ひとたび手綱から解き放たれた人民による社会の転覆,ヨーロッパの解体を防ぎとめうるのは,今やオーストリアをおいてないとの自覚にもとづくことであった。不幸なことに,1848年二月革命の激震はせっかくの努力を水泡に帰させ,ウィーン体制の崩壊過程は一挙に堰を切ることとなる。それは「終わり」の始まりであるが,第一次世界大戦に及ぶ皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の治世(1848〜1916)こそは,王朝600年の最後にいかにもふさわしい落日の光輝にも似た,政治的には暗くとも,文化的にはまばゆいばかりの「ベル=エポック」なのであった。シュペングラーの『西欧の没落』が読書界をかきまわすきっかけとなった第一次世界大戦は,オーストリアの民族問題をもって始まり,ハプスブルクの退陣(共和制の発足)をもって終わる。1866年普墺戦争に敗北したことで,ドイツ民族主義への大らかなかかわりの途を封じられたオーストリアは,翌年ハンガリー貴族を懐柔してオーストリア-ハンガリー二重帝国を成立させたが,かえってスラヴ系諸民族の不満を醸成して,大戦勃発の墓穴を掘ってしまった。民族自決の原則により戦後処理が進められたとき,オーストリア-ハンガリー帝国は手足をもがれて,旧国土の8分の1を擁するだけの小国となって残ったのである。しかもかろうじて誕生した共和政にしても,ドイツへ合併(アンシュルス)され,そのために第二次世界大戦ではソ連軍の突入を招くことになった。1955年ようやく主権をとりもどしたが,永世中立を宣言して,東西のはざまに,今は国際政治の主役を演ずることもなく,過去の夢を生きるのである。西欧の栄光と没落は,そのままオーストリアの運命の軌跡でもあったのではないだろうか。

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