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●オーストラリアの政党 オーストラリアのせいとう

大洋州 オーストラリア AD 

【オーストラリア自由党】戦後のオーストラリア政治を長期にわたって担当してきた主要政党で,結党は1945年2月。前身である統一オーストラリア党(UAP)は1943年の総選挙で敗北し,これが直接のきっかけで党に内部分裂が生じた。結局UAPを解体したのち,メンジスを指導者とする新党として自由党が設立された。自由党は1949年の選挙に勝利を収めて以来,1972年まで地方党と連立して長期政権を築いた。メンジスは1949〜66年まで首相として君臨し,対米協力関係の強化,(アンザス条約締結・アメリカ資本導入)をはかってオーストラリアを太平洋国家へと導いた。この間資源ブームによる経済の高度成長が実現され,日本・アメリカとの経済関係も緊密化し,イギリスの重要性が経済面でも激減した。対米依存度の増大はさらに反共政策により加速され,外交防衛面でのアメリカ追従路線(アメリカの封じ込め政策を支持し朝鮮戦争・ヴェトナム戦争参加)がメンジス体制下で定着した。しかしメンジス以後,党内のリーダーシップ闘争が激化し,1972年までの6年間に四つの政権(ホルト・マッキュエン・ゴートン・マクマーン)が誕生したがいずれもメンジス路線の継承で終わり,自由党は米中国交回復をはじめとした急激な国際関係の変化に対応することができず,労働党に1972年の選挙で敗れた。1975〜83年に第2のメンジスをめざしたフレーザーが首相となったが,世界同時不況のなかでインフレ抑制と賃金凍結策を導入したものの,経済を好転させることができず,1983年総選挙でホーク(Robert Lee Hawke)の率いる労働党に大敗を喫した。

【オーストラリア労働党】オーストラリアで最も古い政党で,1890年代における労働組合運動の隆盛とともに発展した。以来労働組合を最大の支持層としており,現在ではACTU(オーストラリア労働組合評議会)と不可分の関係にある。また教育関係者・官僚のなかにもかなり支持者がいる。社会民主主義にもとづく労働者の権利擁護と高福祉社会の実現を公約として掲げ続け,スト権確立・最低賃金制・就業時間制限・国民皆保険制度の導入などで積極的な役割を果たした。1904年に成立したワトソン内閣は世界初の労働党政権。危機の政党といわれるように,第一次世界大戦・1929年の世界恐慌・第二次世界大戦など世界的危機状況のなかでつねに政権を担当する機会に恵まれた。コーカス(両院議員総会)の決定が全議員の行動を拘束することで一枚岩の組織をつくり上げたが,現実には左右両派の対立がつねに存在し,党の分裂も今までに数度あった。1916年および1931年の分裂は労働党右派と自由党の合同をもたらし,冷戦期の右派は民主労働党を結成して反共政策を推進した。第二次世界大戦後外交政策の文脈においてはエヴァット外相の国連外交,ウィットラム首相(1972〜75)の革新政策(アメリカの影響力排除・資源ナショナリズム・社会主義国との国交回復)が特筆に値する。同首相は1975年にイギリス女王の任命する総督により解任されたため,党内では完全な共和制に移行すべきだとの論議が盛り上がった。1983年総選挙で大勝したホーク政権は,ウィットラムと違い漸進的に問題解決をはかる現実主義の立場をとっている。

【オーストラリア地方党】農民層や地方住民を主要支持層とする自由主義政党でオーストラリア3大政党の一つ。第二次世界大戦後自由党が政権を担当(1949〜72・1975〜83)した際にはつねに連立の担い手となった。自由党・地方党連合政権の閣僚ポストは議員数に比例することが原則であるが,副首相ポストは地方党にあり,ときに党の実勢力以上に強い影響力を政治に及ぼすこともある。結党は1920年で,各地の農民団体が国政レベルにおける利益を効果的に反映させることを目的とした。社会主義経済体制に反対の立場をとるが,地方におけるインフラ=ストラクチャー整備や産業振興のための政府介入を積極的に支持する。産業の地方分散計画の主唱者。地方の利益を反映するという点で議員間の利害が一致しているため,党組織の統制は比較的よく,死活的利益をめぐっては自由党との対決をも辞さない。1975年に地方党から国民地方党へと改称し,より広く大衆政党への脱皮をはかった。

【統一オーストラリア党】第二次世界大戦前のオーストラリアにおける主要な自由主義政党で,現在の自由党の前身。労働党を離党したジョセフ=ライオンズの右派と既成自由主義政党のナショナリスト党が合同し,これが1931年5月にUAPとなった。労働党が左右に分裂して自由主義政党と合体するのは,オーストラリア連邦成立以来2度目。発端は1929年の世界恐慌をめぐるスカリン労働党政府(1929〜31)の経済政策にライオンズが反対して,デフレ政策を唱道したことにある。健全な財政政策の導入という点でナショナリスト党と利害が一致し,新党の結成となった。新党首ライオンズのもと,UAPは1931年12月総選挙で快勝し,翌年1月には政権を獲得し1934年まで単独政権の座についた。また1941年までの7年間は地方党との連立政権を組み,10年間にわたる長期政権を樹立したものの党勢力はしだいに低下した。1943年の総選挙でカーティンの率いる労働党が上下両院を制したのを契機にUAPの再編が進み,ニューリーダーのロバート=メンジスのもと,1945年に自由党が結成された。これに伴いUAPは消滅した。

【オーストラリア共産党】 1917年のロシア革命に影響されてオーストラリアの社会主義者が1920年10月30日にシドニーで結党。当初CPAは共産主義のイデオロギー政党ではなく,労働党との協力関係を積極的に進めるなど第2労働党的な色彩が強かった。しかし1922年に党がコミンテルンに参加し,ソヴィエト共産党の影響を直接受け,その政治目標も世界革命へと転換させて労働党と立場を異にするようになった。このようなCPAの実質的な“共産化”は,750人の党員を1925年には280人へと激減させる一方,労働党は共産党支持者の入党を拒否するなどCPAは孤立化を深めた。1929年の世界恐慌は経済混乱と失業者増大をもたらしたにもかかわらず,党員数は伸びず1935年でも約2,800人であった。この間党機構の改革が進み,中央集権的な組織を確立することで労働組合の幹部層に支持者を徐々に獲得していった。第二次世界大戦中,政府は共産主義の危険性を指摘してCPAを非合法化したが,ソ連の連合国側への参戦により解除された。党の最盛期はこれから1950年代中ごろまでで,1945年には党員を2万3,000人まで急増させたこともある。クィーンズランド州議会での議席獲得,労働組合幹部の共産化など勢力を拡大させた。だが第二次世界大戦後,自由党・労働党・ローマ=カトリック団体の反共運動の前に党勢力は縮小の一途をたどり,対外的にはハンガリー暴動中ソ対立の発生で党内部に亀裂も生じた。ことに中ソ対立は親中派マルクス=レーニングループと親ソ派に分裂させた。党員も1960年代には5,000人を下回り,連邦議会に議席を保有することなく,現在ではオーストラリア政治を左右する影響力はほとんどない。

〔参考文献〕D.ソロモン,川ロ浩・竹田いさみ共訳『現代オーストラリアの政治』1982,敬文堂

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