●オストラキスモス
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古代アテネの政治的追放制度のことで陶片追放と訳される。被追放者は10年間国外退去を命ぜられるが,財産没収や不名誉をこうむることはなく,帰国後はふつうの市民生活に戻ることができた。市民が陶器の破片(オストラコン)に追放したいと思う人物の名前を刻んで秘密投票したので,この名称がある。アルゴスにも類似の追放制度があり,シラクサにはオリーブの葉を用いる葉片追放(ペタリスモス)の制度があり,いずれもその性質上,民主政治と深い関係をもっている。【起源】前6世紀末にクレイステネスが部族改革を実施したときに,民主政的立法の一つとしてこの制度が設けられたとアリストテレスは伝える。しかし,民主政的立法の内容がまったく不明であるため,この伝えには疑いがもたれ,また,この制度の最初の実施が20年も後であるところからこの制度のクレイステネス起源も疑われ,前488年ごろにつくられたとする説もある。この制度のつくられた理由としては,僭主政の再発防止が伝えられている。才能や人気の卓抜した人物はキュロンやペイシストラトスのように僭主への野望を抱きやすく,したがってこの種の人物を10年間国外退去させて野心を未然に防ごうとするものである。クレイステネス改革の時代には,僭主一族の有力者たちが国内に残留しており,追放された僭主の帰国運動もスパルタやペルシアを通じて再三企てられていた。かかる危機のなかで政権を握っていた貴族や民衆がこれに対抗する措置としてオストラキスモスを採用することはありうることである。しかし,僭主志願者が武力によって権力奪取する傾向にあるとき,このような平和的措置がどこまで有効であるか,疑問がなくはない。そこで,この制度は改革直前のクレイステネス派とイサゴラス派の党争のように,政争が武力闘争に転じるのを事前に防止する措置であったとみる説もある。対立する有力者の一方を平和的に追放し,政治的混乱を回避すると同時に,敗者の側の生命や才能をも救済しようとするものである。事実,陶片追放を受けた者の多くは人気や実力の高い者ではなく,その時点での政治的敗者である。
【実施方法】毎年第6プリュタネイオン(早春のころ)の主要民会でオストラキスモスの予備採決が討論なしの挙手投票でなされ,その年に追放のための投票が実施されるべきか否かがまず決定される。可決された場合には1カ月以上の運動期間をおいて第8プリュタネイオン以前の一定の日にアゴラで本投票が行われる。市民は陶片に記名して部族ごとに投票したが,総投票数が6,000票以下の場合には無効になる。6,000票以上のときはそのうちの最多得票者が追放された。個人の得票が6,000票以上で,かつ最高の得票者が追放されたという説もあり,定説はない。しかし,後者の説はヒュッペルボロスの追放には妥当しないように思われる。これはニキアスとアルキビアデスとの抗争激化を背景に実施され,いずれか一方の追放が確実視された段階で両者は協力し,第三者のヒュッペルボロスに両派の票を集中してこれを追放した。後者の説に立てば,ニキアスとアルキビアデスはそれぞれ6,000票以上を得票することが確実になったとき,ヒュッペルボロスにさらにそれ以上の票を集中したことになり,合計20,000票以上の投票が必要となる。市民数が25,000人といわれ,主要民会に6,000人を集めることが困難であった当時,この票数は非現実的である。
【経過】陶片追放を受けた9人のうち,過半数の5人が最初の実施年,前487年から前482年までの6年間に集中している。残留僭主派の首領ヒッパルコスとほかの1人,アルクメオン家のメガクレスとその傍系のクサンティッポス,クレイステネスの政治的仲間といわれるアリスティデスの5名である。以後,前470年代にテミストクレス,前460年代にキモン,前450年代にトゥキディデスが追放され,しだいに単なる政争の具と化したために使用が中止された。前417年にニキアスとアルキビアデスの抗争でさらに実施されたが,抗争に関係のないヒュッペルボロスが追放されたため,以後再び実施されることはなかった。
〔参考文献〕アリストテレス,村川堅太郎訳「アテナイ人の国制」『アリストテレス全集17』1972,岩波書店