●オゴタイ
アジア モンゴル国 AD1186 遼・西夏・金
1186〜1241 モンゴル帝国第二代のハン(在位1229〜41)。廟号は太宗(元)。チンギス=ハン(太祖(元))の第3子。チンギス=ハンが1227年(太祖22)に死去したのち,1229年(太宗1)春,クリルタイで親族・諸将の推戴をうけ即位した。オゴタイはチンギス=ハンの大ジャサク(Jasak)に従って帝国を統治することを内外に宣明し,金国の制度を参考にしつつ,契丹人宰相の耶律楚材・ウィグル人宰相の田鎮海を登用して,中央政府の政治機構を整備した。そして,内政においては,初めて国内に税制をしき,モンゴル人からも所有家畜の頭数からその約100分の1を徴収することに定め,1235年にはオルホン河畔に帝国の首都カラコルム(和林)城を建設し,これを中心として各方面に駅站を設けて交通網の整備にも力を注いだ。また,対外的にはチンギス=ハンの遺業をうけて征服事業を推進した。すなわち,1231年には西アジアに再興しつつあったホラズム国を滅ぼし,1234年には金国の首都ベンキョウ※注1※,ついで蔡州を攻略して宿願を完遂した。さらに,バトゥ(抜都)を総指揮官とするロシアおよびヨーロッパ遠征軍は,輝かしい成果を収めた。1240年にはロシアの首都キエフを屠り,その後ポーランド・ハンガリーの各地を経略して,ローマ教皇やヨーロッパ封建諸侯の一大脅威となった。最後に,その属領統治について,オゴタイ=ハンは占領征服地帯を,漢土・トルキスタン・トランスオキシアナとの3方面に分け,漢土はもとより他の2地区においても,かなり詳細で正確な戸口統計を作製し,それにもとづいて一定の徴税体系を樹立した。これにより,モンゴル帝国は従来の素朴な遊牧的国家から組織だった帝国的体制へと,内部に新しく大きな矛盾をかかえながら発展していくのである。
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