●沖縄 おきなわ
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日本最南端・最西端にある県。九州と台湾のあいだに弧状に連なる琉球列島の南半分を占め,大小60余の島嶼で形成される。亜熱帯海洋性モンスーン気候の性格を有し,年中温暖で降雪をみない。面積2,250平方km,人口約110万人,県庁所在地は那覇市(人口約30万人)。琉球はその別称。【歴史】山下洞人・港川人の発見に示されるように,すでに3万年前の旧石器時代から人類が住んでいた。縄文時代の開始とともにその文化圏の一員となったが,縄文後期からしだいに個性的な文化を形成するようになった。彌生文化の影響はあったもののそれほど強くはなく,古墳文化にいたってはほとんど影響を及ぼしていない。12世紀ころから米・麦などの穀類農耕文化と鉄器文化が定着しはじめ,各地に按司(あじ)と呼ばれる首長が発生して抗争を繰り返すようになった。按司間の抗争は14世紀に入ると北山(ほくざん・山北)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん・山南)という三つの小国家を形成するまでになったが,1372年中山王察度(さっと)は中国(明)皇帝の求めに応じて初めて朝貢し,以後500年に及ぶ中国との親密な外交・貿易関係の端緒をひらいた。15世紀に入ると,尚巴志(しょうはし)が現れて中山・北山・南山を相次いで攻め滅ぼし,1429年に統一王朝(第一尚氏王朝)を樹立した。琉球王国の成立である。1469年,金丸を推す勢力のクーデタにより第一尚氏王朝は滅び,金丸は即位して尚円(しょうえん)と号し,新しい王朝(第二尚氏王朝)を開いた。新王朝3代目の王尚真(しょうしん・在位1477〜1526)の治世には,王国制度の整備・強化がはかられ,北は奄美大島から,南は与那国島にいたる島々を版図とする王国が確立をみた。この間,対外交易も隆盛をきわめ,琉球船は東シナ海をひんぱんに往来して中国との貿易(進貢貿易)を行ういっぽう,北の日本・朝鮮,南のシャム・マラッカ・ジャワなど東南アジア諸国とも活発な貿易を展開し,東アジア屈指の交易国家として繁栄した。
17世紀に入り,日本に強力な封建国家(幕藩制国家)が出現すると情勢は一変した。1609年春,徳川家康の許可を得た薩摩藩主島津家久は兵3,000を琉球に送り,これを征服した(島津侵入事件)。これにより琉球王国は薩摩藩を管理者とする日本の封建国家体制の一環に置かれると同時に,いぜんとして王国体制を保持しつつ,中国との外交・貿易関係も維持するという立場を余儀なくされた。270年後,明治維新により日本が近代国家としてスタートする際に琉球王国の処遇が問題になった。1879年,政府は軍隊・警察官を動員して琉球側の反対,中国側の抗議をよそに「沖縄県」の設置を強行した(琉球処分)。これにより琉球王国は終止符を打たれたが,歴史的事情の相違に伴い他府県とのあいだに著しい社会的格差が横たわっていたために,県政施行後も各種の特別措置がはかられ,全国なみの制度が実現するのはようやく大正中期になってからのことである。1945年,太平洋戦争最末期の日米両軍の戦いが沖縄を舞台に展開されたため,一般県民も甚大な被害をこうむった(沖縄戦)。戦後,日本から分離されアメリカの直接統治下に置かれるようになり,広大な米軍基地が建設された。県民はやがて日本への復帰を願って広汎な社会運動を展開するようになり(祖国復帰運動),1972年5月15日,日本への復帰が実現し27年ぶりに「沖縄県」が復活した。
【文化・社会】沖縄で話されることば「琉球方言」は,本土方言とともに日本語を構成する2大方言である。このことが象徴するように,沖縄の文化は日本文化をベースにしながら,その後の中国をはじめとする海外文化の影響を受けつつ形成されたものであった。このためきわめてユニークな性格をもち,音楽・舞踊・民俗・美術工芸・料理などの各面で「沖縄文化(琉球文化)」と総括されるほどの独自な世界をもっており,その伝統は基本的に現在に引き継がれている。自己をウチナー(沖縄)・ウチナンチュ(沖縄人)といい,自己以外の日本(本土)をヤマト(大和)・ヤマトゥンチュ(大和人)として区別するなど,県民意識にも独自性がみられる。戦後のアメリカ統治時代は「基地経済」の用語が示すように,米軍基地依存型の経済構造を特徴としていたが,復帰後は本土との格差是正のために政府の大規模な公共投資が行われたため,社会資本が整備され,観光やサトウキビ・花卉などの農業を中心とする新たな産業的展開をみせるようになった。だが,在日米軍基地の5割が集中するなかで「基地オキナワ」の基本構造は変化しておらず,将来になお多くの課題をのこしている。
〔参考文献〕新里恵二ほか『沖縄県の歴史』1972,山川出版社
高良倉吉『琉球の時代』1980,筑摩書房
新崎盛暉ほか『観光コースでない沖縄』1983,高校生文化研究会
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