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●岡場所 おかばしょ

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 江戸における公娼=吉原遊廓に対する私娼地の総称。かくれざと・かくしまちともいう。“岡”とは岡目八目・岡惚れ・岡焼きなどの“岡”と同意語で,当事者でない意として使用された。つまり官許ではないということである。また“岡・おか”は“ほか”の転化したもので,“外場所”のなまったものとか,公娼を苦海ということに対し,私娼を“陸場所一おかばしょ”といったことによるという説もある。いずれにしても幕府の許可なくして遊女屋稼業を営業する地域をさすことばである。大坂では江戸の岡場所にあたる地域を外町・島場所と呼んだ。

【岡場所の始まり】幕府は1617年(元和3)3月,庄司甚右衛門の遊女屋を一カ所に集合させた遊里開設願を五カ条の条件つきで許可し,ここに公娼が誕生した。このときの条件のなかに〈傾城町の外遊女屋商売致すべからず〉とあり,吉原町以外では遊女屋の経営は御法度となった。その後,四宿(品川・板橋・千住・内藤新宿)に置かれた飯盛女(めしもりおんな)は黙認されたが,ここ以外の散娼は隠売女として取り締まった。四宿のなかでも千住は1661年(寛文1)に煮売茶屋の許可に始まり,やがて旅籠屋を兼ねるようになり,板橋も中山道の第1駅として早くから栄え1753年(宝暦3)に飯盛女設置の許可を得ている。品川はこれより遅く1718年(享保3)に飯盛女を置き,内藤新宿は元禄年間(1688〜1704)に設けられ,数度の摘発ののち1772年(明和9)に飯盛女150人が許可されて再開した。これらの飯盛女は酌婦として遊女とは区別されたが,実態は他の私娼地から集められた遊女たちであった。

私娼狩り】吉原町の名主は私娼がはびこると遊客の足が遠のくので,これを恐れ自ら私娼の摘発をかって出,幕府に取り締まりを要請し,幕府はこれを受けて大掛かりな私娼狩りを数多く行った。なかでも最も大きな取り締まりが1656年(明暦2)にあり,風呂屋と称する私娼屋に置かれた湯女(ゆな)の大量摘発がされた。このとき取り潰された風呂屋は200余軒であったという。しかし私娼は後を断たず新吉原へ移り,交通の便が悪くなった吉原をより一層おびやかす存在となった。たびたびの統制にもかかわらず私娼の出現をくいとめることができなかった幕府は寛文年間(1661〜72)茶酌女の法度を設け,1668年に2度目の大量検挙を行い風呂屋系の私娼奴女郎(やっこじょろう)として吉原へ送り込んだ。これらは散茶(さんちや)女郎と称される新しい階層を形成し,吉原町内に堺町・伏見町という新しい町を出現させた。散茶とは客を振らないという意味で,従来の吉原遊女の誇りをもたない遊女とされた。

【岡場所の盛衰】私娼地を岡場所と総称するようになったのは,宝暦ごろ(1751〜63)で,岡場所の取り締まりを驚動(けいどう)というようになったのもこのころであるという。さらに宝暦年間は吉原で揚屋遊び=大尽(だいじん)遊びの主役であった太夫が消滅する時期でもある。ちなみに『吉原細見(さいけん)』(吉原町の地図を再現した小冊子。吉原遊びの案内書)によると,1761年(宝暦11)に1人いた太夫を最後に以後は名称のみとなる。そして吉原では太夫に代わって私娼狩りで送り込まれた散茶系の遊女が全盛を誇るようになった。岡場所の最盛期は安永・天明年間(1772〜80)といわれ,その所在地と内訳は深川25・本所14・京橋15・日本橋22・麹町1・神田18・下谷(したや)9・浅草25・本郷9・小石川9・牛込9・赤坂4・四谷2・麻布7・芝13・郡部10の総数190カ所であり,寺社や盛り場の付近や街道の出入口など人々で賑う場所に多かった。上林豊明著『かくれ里雑考』によると営業は昼夜を四つに切る四切(よつぎり)と五つに切る五切(いつつぎり)があり,値段は四切が1両の約4分の1である1分,五切は1両の約5分の1である12匁となっていた。しかし全盛をきわめた岡場所も寛政改革で76カ所が廃絶,または所払いとなり,天保改革では四宿以外はすべて廃絶となった。