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●大本教 おおもときょう

アジア 日本 AD  明治中期に誕生した教派神道系の新宗教。宗教法人名は「大本」。近代日本の貧しく、虐げられた民衆を具体的に救済しつつ、この世の「立替(たてか)え立直(たてなお)し」「みろくの世」の実現を叫ぶ教えは、たちまちのうちに多くの信奉者を獲得、やがてわが国を代表する民衆的宗教教団に成長した。しかし1921年(大正10)、第1次大本事件、1935年(昭和10)第2次大本事件という、日本の宗教史上でもまれにみる当局の大弾圧をこうむったことでも知られる。大本の発祥は、京都、綾部の一主婦であった開祖出口(でぐち)なおが、1892年(明治25)神がかりし、世の立替え立直しを説いたのに始まり、のち聖師出口王仁三郎(おにさぶろう、本名:上田喜三郎)とともに教えを体系化した。このため、大本では開祖なお・聖師王仁三郎の二人をともに教祖と仰ぐ。

 開祖のなおは、1836年(天保7)、京都・福知山の生まれ。11歳で奉公に出、20歳で隣町綾部の大工政五郎と結婚。しかし53歳でこの夫を失い、ボロ買いと季節的な賃労働でその日暮らしの生活を続けた。8人の子供のうちまだ幼い二人の女の子が残されていた。〈お母さんは商売が済んだら、屹度お饅頭を買って来たげるでな。決して他(人)の物に眼をつけるでないぞ〉と、子供にいってきかせたという。しかも、長男は仕事の辛さから自殺をはかり行方がわからなくなった。次男は台湾で戦死。そしてすでに嫁いでいた長女と三女の身の上に不幸がおこった。極度の貧困と家庭的な不幸のなかで、なおはついに激しい神がかりに陥る。1892年(明治25)旧正月のこと。〈三ぜん世界一同(いちど)に聞く梅の花、艮(うしとら)の金神(こんじん)の世に成りたぞよ。…日本はけものの世になりて居るぞよ。…是では国は、立ちては行かんから、神が表に現われて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ〉こう叫んだ彼女の神は、日本の近代を憤りをこめて否認する厳しい“世直し”の神であった。教団では、この啓示(「初発の神諭」と呼ぶ)をもって大本の開教としている。しかし、教団の形成そのものは1899年、神がかりののち金光教の布教師をしていたなおが、稲荷行者の王仁三郎を迎えて金明霊学会を組織したのに始まる。王仁三郎は亀岡近郊の貧農の出で、近くの高熊山で7日間の修行、ついで静岡、清水の稲荷講社を訪れて霊学行法を学んできたばかりの若い行者であった。翌年、なおの五女で、1919年なおが死没後に第2代教主となるすみと結婚して出口家に入り、大本の教義・教団形成に重要な働きをする。なおは金光教の布教師当時、病気治しの神さまとして近在に知られたが、王仁三郎は稲荷講で習得した鎮魂帰神法(ちんこんきしんほう)といわれる集団的な神がかりの修法で人気を博する一方、そのスケールの大きい異才ぶりを発揮して、大正時代になると教団名を皇道大本と改称、大阪の有力日刊紙「大正日日新聞」を買収して“大正維新”を呼びかけるなど積極的な活動で教団発展の基礎を築いた。しかし大本は、あくまで民衆的な世直しの教義を根にもつ宗教であり、1921年、ついに第1次の弾圧を受ける。王仁三郎以下の幹部が不敬罪・新聞紙法違反容疑で検挙されたのである。新聞まで発刊して影響力が無視できなくなったからである。また1935年(昭和10)には第2次弾圧を受けた。第1次弾圧後、王仁三郎が膨大な『霊界物語』を口述し、天皇制神話に独自の解釈を加え、大本教義の神話的基礎をつくったことによる。容疑は不敬罪と治安維持法違反。大本の綾部・亀岡の全施設がダイナマイトなどで破壊され、教団は解散させられた。

 教団は戦後晴天白日の身となった王仁三郎の指導の下愛善苑(あいぜんえん)の名で再建されたが、王仁三郎は1948年1月没。その後教団は1952年大本と改称、女系相続のたてまえから教主には王仁三郎・すみの娘直日がなり今日にいたる。〈教団本部〉京都府亀岡市荒塚町内丸1 〈祭神〉大本皇大御神(おおもとすめおおみかみ) 〈教典〉『大本神諭』(開祖出口なおのお筆先集)、『霊界物語』(聖師出口王仁三郎の口述集、81巻) 〈教勢〉教会・布教所1,225、教師8,258人、信者168,105人(『宗教年鑑』昭和57年版による)。

〔参考文献〕大本70年史編さん会編『大本70年史』1964、宗教法人大本

大本教学研鑽所編『大本のおしえ』1967、天声社

出口京太郎『巨人出口王仁三郎』1967、講談社

出口栄二『大本教事件』1970、三一書房

村上重良『出口王仁三郎』1973、新人物往来社

安丸良夫『出口なお』1977、朝日新聞社

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