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●大峯信仰 おおみねしんこう

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 広義には奈良県吉野郡の中央を走る大峯山派の山々に対する信仰をさし,狭義には山上ヶ岳(大峯山)を中心とする修験道の霊域に対する信仰をいう。吉野町の吉野山から山上ヶ岳を含む山岳地帯は,『万葉集』に「み吉野の御金の岳」と詠まれ,古代にはカネノミタケすなわち金峯山と呼ばれていた。『日本霊異記』には当山で修行した山岳宗教者(験者)が語られるが,9世紀末から10世紀初めに吉野山から山上ヶ岳をへて,南の熊野にいたる修行路が無名の山伏たちの努力で開かれ,吉野・熊野の原始的修験道は大峯修験道に統合された。理源大師(聖宝)の大峯中興説は,弘法大師空海の金峯山修行を背景にして,真言系修験の偶像である理源大師の再興という伝承が生じたのであろう。こうして平安中期に奥は山上ヶ岳,下は山下蔵王堂(金剛蔵王権現を祭祀)の近辺に院坊が立ちならび,一方では諸法会や入峯儀礼も整えられて,日本の修験道の中枢の霊域となった。さらに『続日本紀』文武天皇3年5月24日条に見える葛城山の役小角が,後世偶像化され,金峯山や大峯修行の開祖と宣伝されるにいたった。古代末から中世には地方修験が競って大峯修行と熊野詣を行い,験者の格付を得ようとしたり,登山の度数を誘った。大峯山を縦走する大峯奥駈修行のために〈七十五靡〉の行場があり,南の熊野から北進して吉野へ出る修行を〈順峯〉,その逆のコースを〈逆峯〉と称したが,南北朝時代にこの体制がくずれて,逆峯修行だけになった。近世には大崔先達に組織された山上講・行者講などの山岳登拝講によって,俗人を登拝させたが,現在も成人儀礼としての大峯登拝の信仰が畿内の村々に伝承されている。以上のような吉野・熊野を含む大峯修験道と大峯信仰は,わが国の山岳宗教・修験道信仰の原型を示しており,そのため今後の研究にまつべき課題も多い。

〔参考文献〕五来重『山の宗教』1970,淡交社

和歌森太郎『修験道史研究』東洋文庫211,1972,平凡社

宮家準『山伏−その行動と組織−』1973,評論社