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●大嘗祭 おおにえのまつり

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 後世字音で「ダイジョウサイ」とも読む。新帝即位後初めて行う国家の大祭であって,国土を統治することを古語でいう「食(お)す国」の実践にもとづく祭祀。その年に斎み浄めてつくられ,収穫された新穀を御饌として献じ,天照大神並びに天神地祇を奉幣して行う天皇一世1度の新嘗(にいなめ)である。それゆえ大嘗祭は初めは新嘗祭とも称し区別はなかったが,のちに毎年宮中で行われるのを新嘗祭とし,天皇即位初めて必ず行う儀礼を践祚大嘗祭と称して区別するようになった。元来,『神祇令』に〈凡大嘗者毎世一年,国司行事。以外毎年所司行事〉とあるように,天皇1代のものと,毎年朝廷で行う2種が同じく「大嘗祭」とも称されていたのである。さて大嘗=新嘗の文献上の初見は天武紀5年9月21日の条に,〈新嘗のため国郡を占るに斎忌(斎,比を踰既と云ふ)は則ち尾張国山田郡,次(次,此を須岐と云ふなり)は丹波国訶沙郡並びに卜に食へり〉(原漢文)とあるように,ここでは,大嘗でありながら新嘗と記す。大嘗祭の斎忌(ゆき)は通常「悠紀」と書き,その国は東方の国でそこからもたらす新穀を奉る。次(すき)は「主基」と記し,西方の国から献じて祭が行われる。東西諸国から選ぶとすれば,大和朝廷が一応東北や九州南部の辺陬(へきすう)の地を除いた諸国を傘下に統治し得たのちの行事といえる。しかし寛平以後は悠紀には近江国,主基には丹波か備前両国に固定してきたが,畿内国は1回もない。大和朝廷が服属した国々の国魂(くにたま)を代表した神のもたらす新穀で,御飯を炊き餅をつくり酒をかもして天つ神に捧げ,同時新帝もともに食ぐ,「食す国」の天皇となるのである。さて大嘗祭の行事は悠紀主基の国郡の卜定から始まり,8月下旬,両斎国に技穂使が派遣され,祭祀の料の稲を,抜き取って9月下句帰京して斎場に納む。宮城内に東西の悠紀殿・主基殿の両斎場が設けられ,天皇は致斎し,11月に3回卯の日があれば,中の卯日に行われるが,後年慣習として下卯の日になった。『延喜式』によれば,大嘗祭には吉野の国栖(くず)が吉風を奏し,ついで悠紀主基国司が国風を奏し,美濃8人・丹波2人・丹後2人・但馬7人・因幡3人・出雲4人・淡路2人計30名(28名で記録の誤りか)の語部が,伴宿禰1人・佐伯宿禰1人によって,そのうち15人を選び率いられて古詞を奏する。各国の語部がその国の語りごとを奏したのは一種の服属儀礼といえるが,その国々が主として西北の方角の国に偏在して多く,西北の隅(乾隅)に多いことは戌亥隅信仰として注目される。宮中でも『延喜式』四時祭上によれば,神産日(かみむすひの)神・高御産目(たかみむすひの)神・玉積産日(たまるむすひの)神・生産日(いくむすひの)神・足産日(たるむすひの)神・大宮売(おおみやひめの)神(宮廷の土地神)・御食津神(穀物の神)・事代主神の8神が神祇官の正庁の西北隅にあたって奉祀されているのだが,その年の豊作を祈る祈年祭は,この8神殿で行なわれる。その神々の多くがムスヒ(生産霊)であることであり,また『内裏儀式』によれば,正月,四方拝には〈天皇‥‥次向再拝天,次西北向再拝地,以次拝四方〉とある(『西宮記』『江家次第』『建武年中行事』にも同趣の記事がみえる)。西北方の彼方に天神に匹敵する祖霊(土地霊)が坐すという信仰が窺える。「古事記』によれば,天つ神須佐男命の御子になぜか大年神の系譜が列挙され,その尽くが穀物を司る大年神・若年神などという農耕に関する穀霊神であって,ここにも西北隅にあたる出雲国に対する信仰が窺える。その上,出雲国からは,国造新任の折上京して,「出雲国造神賀詞」(いずものくにみやつこのかんのごと)を奏する。この儀礼はほかの国々にみられない特殊な行為であり,その「神賀詞」のなかに,天皇を「高天の神主高御魂(たかみむすび)の命の皇御(すめみま)の命」と称してムスヒの御子とし穀物をこの国にもたらしたことを掲げ,出雲の神々の守護・協力によって,天皇の治国の太平豊穣を称えている。大嘗祭の儀礼のなかでとくに国々との語部が参加し,古詞を奏するのは単なる服従を誓い,祝福を捧げるということだけでは理解できないムスヒと戌亥隅信仰とが強力に作用していると考えられる。

【参考文献】岡田精司編『大嘗祭と新嘗』1979,学生社

田中初夫『践祚大嘗祭』1975,木耳社

皇学館大学神道研究所編『大嘗祭の研究』1978,皇学館大学出版部

三谷栄一『日本文学の民俗学的研究』1960,有精堂