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●大塩平八郎の乱 おおしおへいはちろうのらん

アジア 日本 AD1837 江戸時代

 1837年(天保7)大坂町奉行所元与力大塩平八郎が,「救民」を旗印として大坂市中でおこした挙兵事件。

【挙兵の原因】大塩平八郎の挙兵理由は2,000字をこえる長文の激文によって明らかである。それによると,1836年(天保7)の大飢饉は大坂市中にも窮民を続出させる惨状を呈しているのに,大坂町奉行跡部山城守良弼は何らの対策を講じないばかりでなく,翌年4月に予定されている新将軍就任の儀式にそなえて江戸への廻米を優先させるという,一身の利益だけを考えている。また市中の豪商たちは飢饉にもかかわらず豪奢な遊楽に日を送り,米の買い占めによって米価のつりあげをはかっている。このような姦吏・貪商たちに天誅を加え,貧民に金殻を配分するための義挙であるとしている。

【拳兵の準備】大塩は町奉行に何度か救済策を上申するが入れられず,大塩門下による挙兵を決意する。同年1月の同志連判状には約30名の門下生が知られるが,与力・同心11,浪人1,百姓(豪農)12,医師2,神職2,その他2と分類でき,下級幕吏と豪農を軸にしている。2月上句に行った1万軒に対する1朱ずつの施行金の分配も,挙兵当日の激文の配布も,門下農民を通して居住地周辺の農村を対象としており,挙兵参加者もその地域の農民を中心としたものであった。

【挙兵の経過】挙兵の前日,与党の同心2人が変心して奉行所に密告して計画が暴露されたため,2月19日朝8時ごろ自邸に火をかけて行動をおこした。かねて天満に火の手があがればただちに駆けつけよといわれていた近在の農民が集まり,100人ほどの勢力となった。「救民」の旗をかかげ,大筒を撃ったり炮烙玉を投げつけ,天満一帯を火の海にした。難波橋を南に渡って北船場に入ったのは正午ごろであった。このころには近在から駆けつけた農民以外に,仲間にひっぱりこまれた市民など合わせて300人ほどの大部隊になっていた。北船場の鴻池屋・天王寺屋・平野屋・三井・升屋など屈指の豪商を襲撃し,東横堀川を渡って内平野町に入って米屋一党を焼き打ちした。そのころようやく町奉行ら城方の兵が出動し,最初の砲撃戦がおこると一揆勢はたちまち崩れて100余人となり,ついで淡路町の砲撃戦でまったく四散した。挙兵はわずか2度の小砲撃戦による戦死者3人だけで夕刻前には完全に壊滅した。しかし火災は翌日の夜まで続き,その範囲は全市街地の5分の1にまで及んだ。事件後の厳重な探索で門下生の同志はつぎつぎと捕まるか自首・自殺したが,大塩平八郎・格之助父子だけは行方が知れなかった。約40日後の3月27日,父子が市中靱油掛町の町家に潜伏していることが探知され,幕吏に包囲されて用意の爆薬で焼死した。焼けただれた死体となって発見されたため,その後も「大塩死せず」の噂がいつまでも消え去らなかったとされている。

【挙兵の影響】この事件が当時の社会に大きな衝撃を与たえたのは,首謀者が直参の旗本であり,元町奉行所与力という要職にあった人物であり,一身を犠牲にして窮民のために立ち上がったことである。また天下の台所といわれる大坂で白昼堂々と大筒をぶっ放しながら豪商宅を打ちこわし,たちまち全国へ伝えられた。そのため同年4月の備後三原の一揆,同6月の越後柏崎における生田万(いくたよろず)の乱,同年7月の摂津能勢の山田屋大助による百姓一揆では,いずれも「大塩門弟」「大塩残党」などと称して騒動をおこしている。また幕府のきびしい取り締まりの目をかすめて,大塩檄文が写し伝えられ,木版刷が出回るほどであった。水戸藩主徳川斉昭は,この事件を重視し,「内憂外患」をあげて幕府に改革を進言している。いわゆる天保改革も,この事件によってひきおこされた領主的対応ということができるのである。

〔参考文献〕幸田成友『大塩平八郎』1942,創元社(1977,中公文庫)

岡本良一『大塩平八郎』1956,創元社

宮城公子『大塩平八郎』1977,朝日新聞社

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