●大阪 おおさか
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古くは難波(なにわ),大坂の名は1499年(明応8)の蓮如の文書にあるのが初見で,それ以前は小坂といわれた。明治以降大阪が一般的となり現在にいたっている。1496年蓮如は,のちの大坂城の地に石山本願寺を築き,坊舎を中心として寺内町が形成された。これが近世大坂の基礎となった。一時は十町四方の市街を構営したが,織田信長との抗戦ですべて焦土と化した。【大坂の整備】1585年(天正11)豊臣秀吉はこの地を領有して大坂城を築き,船場・島之内の河港を開かせ,堺や京都・伏見の商人を移住させた。1615年(元和1)大坂夏の陣で一時灰燼に帰したが,幕府は松平忠明に命じて市街の復興につとめさせた。1619年(元和5)大坂は幕府直轄地となり,城代以下の諸役人を置き整備を推進させた。大坂城旧三の丸などに伏見の有力町人を住まわせ,新しい町づくりや堀川の開掘を行わせた。元和のころから今の本町筋を境に南・北二組に分かれ,さらに承応年間には淀川以北を天満組とし,あわせて大坂三郷と称した。それぞれに町人のなかから選ばれた惣年寄を置き行政にあたらせた。三郷市街の運河が整備されたのに対して,淀川の治水工事も大がかりに行われ,1684年(貞享1)には河村瑞賢が安治川を開通させた。さらに中之島の改修工事,堀江川・三軒家川の開削により新しい町々がいくつもできた。かくて大坂は水の都として上荷船・茶船が往来し,諸国の船舶がたえまなく入港した。諸藩は大坂の地に蔵屋敷を置き,米や特産物の取引が行われて日本経済を左右する“天下の台所”と呼ばれるようになった。人口も家綱の治世に27万,元禄年間には35万,吉宗の代には40万を数え,寛文・元禄期までに大坂市場の優位性が確立した。
【経済と文化の発展】大坂の物資の集散市場として,堂島の米市のほか天満の青物市,雑喉場(ざこば)の魚市の3大市場が繁栄し,国問屋といわれた。松前問屋・土佐問屋などの荷受問屋や,米・雑穀・木綿・油などを扱う専業問屋も多く,問屋・仲買は株仲間を組織して営業範囲を区別した。当時最大の消費地江戸とのあいだには,菱垣廻船・樽廻船があり,酒以外の商品はおおむね菱垣廻船が使われた。また商品経済の発展に伴い,金融機関が発達した。本両替・銭両替・南両替が船場を中心に分布し,それぞれに親両替・子両替があって,大坂を中心とした金融経済のネットワークを支えた。両替屋は為替手形・振り手形・預り手形を発行し,信用取引は大坂の特徴となった。明和・安永・天明年間に株仲間の許可がなされたものが多く,1841年(天保12)物価低落の折は一時解散させられ,1851年(嘉永4)に再興した。しかし幕府には在株の設定もあり,株仲間・問屋制も動揺していた。大坂の商業的繁栄の裏には貧富の拡大を生み,しばしば打ちこわしなどがおこった。大坂の経済的発展につれ,大坂には独特の学問や文学が生まれた。文学は元禄のころが最盛期で,談林俳諧の西山宗因,浮世草子の井原西鶴,浄瑠璃の近松門左衛門などに代表される。国学では下河辺長流や契沖に始まり,上田秋成にいたって大成された。また庶民の学問所として懐徳堂が建てられ,学主となった中井竹山と弟の履軒によって学風は大いに高まった。
【近代の大阪】明治維新,大久保利通らによる大坂遷都論があり,城代廃止後大坂裁判所を置き,大坂府となる。江戸時代から「大坂」も「大阪」も併用されてはいたが,維新後はもっぱら大阪の呼称となった。蔵屋敷の廃止,株仲間の解散,藩債処分,銀目廃止など大きな打撃を受けたが,西南戦争ころから府下の近代的工業は復興してくる。1889年(明治22)市制が実施され,まず紡績業の設立から発展をみた。1895年(明治28)には全国の総錘数の4割を大阪府下で占め,東洋のマンチェスターと呼ばれた。第一次世界大戦,関東大震災で大阪はさらに飛躍する。しかし第二次世界大戦によって一時低迷するが,中小企業を中心とした回復をみせて,最近の大阪は充実発展のために努力を重ねている。