●大蔵省 おおくらしょう
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大蔵省は,1869年(明治2)7月8日布告第662号「職員令」によって創設され,その間,事務機構の改正はあったが,大蔵省という名称は1度も変えられることなく,今日にいたる。【草創期】王政復古後,金穀出納所が設置され,中央官制の整備とともに財政行政機関として会計事務課が設けられ,両者が廃されると会計事務局が二条城内に設けられた。やがて1868年(慶応4)「政体書」が発せられ,太政官が成立し,それを7官に分けたとき,会計官が中央官庁の一つとして創設された。会計官ははじめ京都にあったが,東京が本庁となり,馬場先門内旧忍(おし)藩邸に移された。7月8日の職員令は大宝律令にならった復古的色彩が強く,太政官の下に民部・兵部・刑部・宮内・外務,そして大蔵省が誕生した。会計官を継承したものである。初代の大蔵卿は松平慶永(よしなが),大蔵大輔は大隈八太郎(重信),少輔は伊藤俊輔(博文)であったが,松平は1869年(明治2)8月12日に就任したが,わずか12日で伊達宗城と交代。大蔵省設立当初は1寮7司からなり「金穀出納,秩禄,造幣,営繕,用度等ノ事」を所管,同時に成立した民部省は「戸籍,租税,駅逓,鉱山,済貧養老等ノ事」とされ,造幣寮・出納司・租税司・監督司・通商司・鉱山司・用度司・営繕司のうち,租税・監督・通商・鉱山4司が民部省に移管された。翌8月12日に,大蔵・民部は合併された。大隈は省の大輔を兼任により,その権限は強大,保守派の反発を招いた。そこで1870年7月,蔵・民分離が断行され,伊達・伊藤ともども大隈の兼任は解除された。1871年6月,大久保利通が大蔵卿に任ぜられると,7月,民部省が廃止された。しかし,1873年11月,内務省が設立されると大久保が就任,大蔵省の機能は再び縮小,1875年11月から参議・大隈が大蔵卿を襲い,明治初期の重要な財政政策のすべてを担当した。しかし,大久保の死後,薩長によって参議と卿の分離が決定,1880年2月,大隈は,その兼任を解かれ,佐野常民が卿に就任したが,「明治14年の改変」で,松方正義が大蔵卿となり,参議も兼ねた。
【立憲的財政制度の成立】1885年12月,内閣制度が発足すると,松方が大蔵大臣に就任,翌年官制制定により,各省共通に大臣宮房・総務局・会計局が置かれ,大蔵省では本省に主税・関税・主計・出納・国債・金庫・銀行・預金・記録の9局が置かれ,1房11局となった。造幣・印刷2局は管理下にあるが,独立した外局となった。財政制度の整備については,1873年6月,大隈大蔵卿が「見込合計表」を公布したが,わが国最初の予算の公表であったが,これは政策上の対立(井上馨大蔵大輔・渋沢栄一3等出仕の辞職下野)がきっかけであった。以後,公表が慣例となり,1881年,予算の作成に始まり決算で終了する会計法が作成され,前年の会計検査院設置とともにしだいに整備をみた。1882年に会計年度は7月1日から翌年6月30日とされたが,1885年度から4月1日〜翌年3月31日までとされた。会計は常用会計(歳入・歳出とともに経常・臨時に分けられる)と準備会計に二大別された。
【財政上の諸問題】1885年,大蔵省に預金局が設立されて以来,郵便貯金・大蔵省預金および利子支払積立金の三つの原資からなっている預金部資金は,とくに日露戦争後から急増し,[1]国債,[2]一般・特別会計への貨付け,[3]地方低利資金の供給,[4]特殊銀行・会社等への事業資金の融資など多角的に運用された。なお,大正期に入り,会計法の改正により国庫金は従来,日本銀行では別個に保管されていたが,これは日銀に政府預金として預金されるが,一般預金とともに運用できるようになった。また,国有財産法も整備された。敗戦後は1951年(昭和26)4月,資金運用部資金法の公布とともに統一的運用がはかられ,財政投融資計画と政府関係機関の増設で同省の役割は大きくなった。
〔参考文献〕大蔵省百年史編集室編『大蔵省百年史』全3巻,1969,大蔵財務協会
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