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●大隈重信 おおくましげのぶ

アジア 日本 AD1838 江戸時代

 1838〜1922 明治・大正期の政治家。1838年(天保9)2月16日,佐賀城下において父信保,母三井子の長男として生まれる。幼名は八太郎。父は砲術で鍋島家に仕え,400石を給されていた。7歳で藩校弘道館に入学して朱子学を学び,葉隠(はがくれ)主義の訓育を受ける。長ずるに及んで,その学風に反発,1854年(安政1)義祭同盟に加わり学風改革を唱道したが,翌1855年(安政2)退学となる。同年10月には蘭学寮に入り洋学を学ぶ。のち同寮が弘道館と合併されると,その教官となった。1863年(文久3)には,長州藩の下関外国船砲撃にあたり長州藩援助を策す。また1864年(元治1)の征長の役に際しては,藩主鍋島直正を動かして,朝幕間の斡旋,あるいは幕府に中止を勧請させようとしたが,果たせなかった。このころ,長崎で米人宣教師フルベツキについて英学を学び,1865年(慶応元)5月長崎に英学塾致遠館を設立し,その経営にあたった。幕末の政争に際しては,京都・兵庫・長崎に往来し尊攘激派として活躍。1867年(慶応3)3月副島種臣とはかり,将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとして脱藩上京したが,事成らず佐賀に送還された。明治新政府が成立すると,1868年(明治元)3月徴士参与職・外国事務局判事に任ぜられた。その後,キリスト教処分問題をめぐるイギリス公使パークスとの折衝,横須賀造船所のフランスからの回収など,新政府成立当初の難問で外交的手腕を発揮した。同年12月外国官副知事に昇進,翌1869年(明治2)3月会計官副知事を兼務し,贋貨処分問題を解決した。ついで大蔵大輔・民部大輔を歴任,鉄道電信の敷設・工部省の設置などに尽力した。1870年(明治3)9月参議,1873年(明治6)5月大蔵省事務総裁,ついで大蔵卿となる。同年10月征韓の議がおこると,これに反対した。1874年(明治7)台湾征討にあたり蕃地事務局長官となった。1877年(明治10年)の西南戦争では,征討費総理事務局長官として戦費支弁の任につく。大蔵卿就任以来,地租改正秩禄処分を断行し,殖産興業改策を進め,資本主義発展の基礎を整備した(いわゆる「大隈財政」)。1881年(明治14)3月政党内閣制と国会即時開設を主張,また開拓使官有物払い下げに反対して薩長勢力と衝突した。これに財政上の不手際も重なっても10月免官となる。大隈とともに多くの官吏も辞職した(明治14年の政変)。小野梓矢野文雄ら下野した人々と政党組織化を進め,1882年(明治15)4月立憲改進党を結成し,総理となる。同年10月には東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立。1887年(明治20)5月伯爵に叙される。1888年(明治21)2月伊藤内閣の外相,ついで黒田内閣の外相として条約改正交渉にあたった。しかし外国人法官任用問題で国権論者の激しい非難を受け,1889年(明治22)10月玄洋社員来島恒喜に爆弾を投ぜられて右脚を失う。1896年(明治29)に野党を合同して進歩党を結成,党首となる。まもなく薩派と提携して松方内閣の外相となり(松隈内閣),1897年(明治30)農商務省を兼任したが,薩派と合わず辞職した。1898年(明治31)板垣退助とともに憲政党を結成,続いてわが国最初の政党内閣(隈板内閣)を組織したが,党内分裂と閣内不一致のため4カ月で総辞職した。その後憲政本党総理にあったが,1908年(明治41)1月政界より一時引退した。その間,早稲田大学総長に就任した。また文明協会を設立(1908)して世界の名著の翻訳叢書を刊行し,『新日本』(1911),『大観』(1918)を創刊,さらに南極探検隊(隊長白瀬中尉)後援会長に就任するなど,文化事業に尽力した。編著書には『開国50年史』(1908),『国民読本』(1910),『東西文明の調和』(1911)などがある。大正初年の,第一次護憲運動がおこると再び政界に入り,立憲同志会の援助を得て,1914年(大正3)内閣を組織する。第一次世界大戦が勃発すると8月対独宣戦布告,1915年(大正4)には対華21カ条要求を提出した。8月内閣を改造し外相を兼任したが,1916年(大正5)10月には総辞職をし,政界から完全に離れた。同年7月に侯爵に叙された。1922年(大正11)1月10日早稲田において85歳で死去。日比谷公園で国民葬が催され,護国寺に葬られた。

〔参考文献〕中村尚美『大隈重信』1961,吉川弘文館

大隈侯85年史編纂会編『大隈侯85年史』全3巻,1926

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