●大久保利通 おおくぼとしみち
アジア 日本 AD1830 江戸時代
1830〜78(天保元〜明治11)幕末〜明治初期の政治家。1830年9月26日(天保1年8月10日),薩摩国鹿児島城下で藩士大久保利世の長男として生まれる。1846年(弘化3)藩の記録所書役助となったが,1850年(嘉永3)に父利世が藩内政争(高崎くずれ)に連座して遠島処分を受けたにともない,免職謹慎処分となった。島津斉彬が藩主に就いた1854年(安政1)復職,ついで蔵役となった。1857年(安政4)には徒目付に昇進,早崎満寿子と結婚した。1859年(安政6)尊攘派同志と脱藩義挙を企てたが未遂に終る。これをきっかけに藩政実力者の島津久光(藩主島津茂久の実父)に接近,尊攘派から公武合体派に転向した。1862年(文久2)久光の公武合体・幕政改革の企てに参画し,一橋慶喜を将軍後見職,松平慶永を政事総裁職に就けるのに成功した。1863年(文久3)薩英戦争に従軍。薩摩藩は,1864年(元治1)の参予会議決裂後は反幕色を濃くした。大久保は西郷隆盛と組んで,長州再征反対・徳川慶喜将軍職就任阻止・兵庫開港のための四侯会議画策など反幕政治活動に従事し,その過程で岩倉具視と結びつく。1867年11月9日(慶応3年10月14日)慶喜が大政奉還の挙に出ると,大久保は藩論を武力倒幕にまとめ,岩倉と組んで1868年1月3日(慶応3年12月9日)王政復古クーデタを敢行した。1868年(慶応4・明治1)明治維新政府の参与・徴士・内国事務掛・総裁局顧問・鎮将府参与を歴任,新政府の中枢にあって政権の基礎がために尽力した。また大阪遷都論を唱えた。1869年(明治2)木戸孝允らと版籍奉還を実現。ついで参議となり,従三位賞典禄1,800石を受けた。このころから木戸派との対立が激しくなる。対抗上,西郷を政府に迎えいれようと,1870年(明治3)暮れに勅使岩倉に従って鹿児島におもむき,西郷引き出しに成功した。1871年(明治4)大蔵卿,同年8月(7月)西郷の指導力と御親兵の威力のもとに廃藩置県断行,日本全土は政府の直接統治下に統一された。やがて条約改正の下準備と,欧米文明の視察を目的とする岩倉使節団が派遣されることになり,大久保は全権副使となった。同年12月(11月)横浜出港,アメリカ・ヨーロッパ諸国歴訪を開始した。最初の訪問先アメリカ合衆国で盛大な歓迎に気をよくした一行は,全権委任の範囲を越えて条約改正交渉を申し出たが,アメリカ側から全権委任状の不備を指摘される。大久保は,同じく副使伊藤博文と同道して,新しい委任状発行をもとめていったん帰国,しかし条約改正交渉は成功しなかった。1873年(明治6)5月大久保は,岩倉一行に先だってドイツから失意のうちに中途で帰国。一方,西郷以下の留守政府は,内政外交にはなばなしい成果を上げた。同年8月政府は西郷の朝鮮使節任命を内定したが,太政大臣三条実美は西郷派遣の延期をはかり,固辞する大久保に頼みこんで参議に就任させ,閣議で延期論を主張させた。しかし閣議は西郷派遣を決定して大久保は孤立,彼は勢力挽回を目指して岩倉と組んで宮廷陰謀を駆使し,明治天皇に使節延期を表明させて西郷派参議を辞職に追い込んだ(明治六年政変)。俗説では征韓論政変と呼ばれているが,このとき西郷が,征韓論を主張した証拠はない。西郷の立場は,朝鮮国との平和的道義的交渉論であった。これ以後,いわゆる有司専制(大久保独裁)の時期に入った。11月初代内務卿を兼任。1874年(明治7)2月佐賀の乱が起きると全権を帯びて現地にのりこみ鎮定。続いて台湾出兵のあと始末のため全権弁理大臣となって清国に渡り,10月清国全権とのあいだに「日清両国互換条款」を締結し,日本の行為を清国に認めさせた。1875年(明治8)1月,政局の安定と政権の強化を求めて野に下っていた木戸孝允・板垣退助と大阪で会談し(大阪会議),漸進的に立憲政治に移行する方針を打ち出した。また,地租改正事務局総裁や,各種博覧会総裁を兼ねて殖産興業にあたった。1876年(明治9)から1877年(明治10)にかけて,各地に士族反乱が起きると積極的に鎮定したが,その反動として1878年(明治11)5月14日,東京紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら6名に暗殺された。〔参考文献〕勝田孫弥『大久保利通伝』全3巻,1910〜11,同文館
毛利敏彦『大久保利通』1969,中公新書
毛利敏彦『明治六年政変』1979,中公新書
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