●近江商人 おうみしょうにん
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近江商人というのは江戸時代に近江中郡(蒲生・神崎・愛知)ことに八幡・日野・五箇荘を中心とする地方に根拠をおいて行商と出店とによって,主として三都・そのほか北海道(松前)をはじめ広く全国的に進出した商人たちをいう。それらの地方が上代多数の渡来人の移住地で,算数・商業に秀いでた子孫が多いこと,近江の位置が三道の枢要を占め,一方では京都を控えて,文化が早くより発達し商人の発生条件として有利であったことが数えられるのである。また近江がとくに水害が多く,農業生産が不安定なために,商業を求める必要があり,さらに中世の覇者佐々木氏のなきあとは,多数の遺臣が商業に生活の道をもとめたこともあろう。あたかも安土・八幡以下が城下町でなくなったために領主の保護を失った商人たちは,新規にその活躍の道をみいだすべき必要に迫られて,やがて行商として,各地に進出し,あるいは領主の転封にさいし商人もそれに付随して,新領地に赴くなど,自然に進出の機会をつくった。近江商人の営業形態は,行商より出店となり,商業をなすのみならず工業・漁業・金融業にまで進展したのであるが,しかしその出発点は行商であった。傑出した業者のものや天秤棒をかついで,「持ち下り」をしたのである。また有望な土地に枝店・支店を設け,それを本拠にしつつ営業した。これらの商人を出した地方は八幡・日野・南北五箇荘・愛知郡の所々,高宮・彦根・長浜がそのおもなものであった。
そのなか八幡商人は早くより,同地その特産である蚊帳を諸地方に行商し,その需要がますと,原料を北陸にもとめて,ますます大規模の生産をなした。そのほか,畳表・呉服・雑貨をも取り扱った。江戸をはじめとして各地の城下・町に出店を設けた。元和・寛永ごろから江戸日本橋に店舗を出したものに西川甚五郎・仲伝兵衛がいた。西は長崎・薩摩,東は南部・津軽に及び,松前・箱館の蝦夷地にまでいたった。国産のみならず京大阪,西国筋のいっさいの名産を東国にもち下り,その帰路には仙台裃地・下野結城縞・出羽紅花・上州桐生の織物・蝦夷地の昆布・数の子まで積んで来て,それを上方・西国にて売り捌いた。
日野商人は日野および,その近郊一帯の商人で,近世初頭旧領主の蒲生氏の縁故により,松坂,ついで会津などに移る。漆器類をもち下り,のちには売薬をもっていく。茶・呉服・太物をもあきなう。そして両毛地方を中心にする関東地方に酒・醤油を醸造したり,呉服や売薬をも販売した。日野椀を製造し,ついで上総地方に売薬の行商をなした。中井源左衛門はその代表であった。正徳年間に万病感応丸をうりあるいた正野玄三も有名である。日野町を中心とする日野大当番の組織は有名である。
五箇荘商人は江戸中期以後に活躍した。そこは村落で地場商業はあまりやらず,主として出店もちの商人の散在地であった。呉服・雑貨・紅花・麻布・編笠ををもちより,北は松前より南は九州の島々にも及んだ。愛知川商人は麻布をもちより,高宮・彦根商人は文化・文政以後,三都に店舗を開いて,呉服商そのほかの巨商となった。長浜商人はちりめんそのほかの織物や米・肥料の取引で成功した。五箇荘商人としては松井久左衛門・中村治兵衛があり,阿部市郎兵衛は紅染・渡世・麻布仕入で知られ,稲本利右衛門は東国・西国の織物を交易した。藤井善助・市田弥惣八・阿部市太郎は五箇荘出身の巨商であり,愛知川商人としては小林吟右衛門が有名である。
湖北からは商人の出身は少ないが高島郡大溝出身の村井・小野両家は特筆すべきである。
関東地方における醸造業は主として近江商人,ことに日野商人がはじめたし,松前においては場所請負人となって漁業にもあたる。その資金をもって大名貸にあたり,各種の名目金にもその資金を運用した。日野出身の中井源左衛門家などは多数の出店で質屋をなした。近江商人は共同企業を営むことなく,たとえば大坂の呉服問屋稲西屋は神崎郡旭村の出身稲本利右衛門と蒲生郡市辺村出身の西村重兵衛の両人が文政10年同額の資本を醵出し,文政2年大坂備後町に開店したもので,屋号を稲西屋勝太郎と称し,天保1年には稲西屋庄兵衛と改めている。近江商人において帳合も相当に発達し,たとえば中井源左衛門の帳簿組織など注目すべきものがある。支店から本店へ送られる決算報告書である「店卸目録」とその付属書類,支店におけるその控え,すなわち「店卸帳」決算通算表である「店卸下書」,さらには日常使用された「大福帳」や「金銭出入帳」などにいたるまで各種の帳簿があって,江戸時代における最も進歩した会計整理であったといわれている。
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