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●応仁の乱 おうにんのらん

アジア 日本 AD1467 室町時代

 室町時代後期,京都を中心におこった大乱。1467年(応仁1)に勃発し,1477年(文明9)一応の終息を得たために,応仁・文明の乱ともいう。1441年(嘉吉1)6月,足利6代将軍義教が赤松満祐によって弑逆された嘉吉の変は,守護大名に対する強い統制力をもたなかった室町幕府の力をさらに弱めることとなった。その跡を継いだ義勝は在任わずか2年で病死し,さらにそれを継いだ義政はわずか7歳であった。義教の将軍就任ごろから激しさを増した土一揆徳政一揆は,その後も激発して社会不安を生むと同時に,幕府としてもこの徳政一揆に対応せざるを得ず,義政は,知られる限り4回の徳政令を出したほどである。さらに幕府の威信の低下と幼少将軍義政の擁立は,おのずと側近の政治への介入を生み,側近と幕府重臣・実力者との衝突を生むことにもなった。1455年(康正1)正月,京都に立てられた落書には「けだし政(まつりごと)は三魔に出ずる也。御今,有馬・烏丸なり」と書かれ,義政側近の政治への介入を強く批判している。嘉吉の変はもともと赤松家の惣領職をめぐる争いに義教が介入したためにひきおこされたものだが,このころから各国の守護大名のあいだには同様の問題が次々と惹起されていた。たとえば信濃の小笠原家や加賀の富樫家,さらには越前・尾張・遠江の守護家斯波家,さらには畠山家などである。そしてこれら守護家の対立は幕府重臣の対立と結びつき,さらに国内では国人勢力の対立へと発展して内紛が勃発し始めた。一方将軍家にあっては,1464年(寛正5)12月,義政は弟の浄土寺門跡義尋を還俗させて義視とし,家督と定めたが,翌年11月3日,義政の正室日野富子は長男義尚を出産した。富子は先の御今(今参局)の退陣・死のあと,代わって政治に大きな影響力をもつようになっていたが,義尚が誕生すると,将軍家世嗣誕生の嘉例にならって,伊勢貞親邸で養育を始めた。義視は義政から,今後たとえ男子が出生しても家督はとりかえることがない約束をとりつけていたため,ここに義視を支持する細川勝元らと,義尚を支持する日野富子・同勝光・伊勢貞親らの対立が生じ,さらに富子らは勝元と対立する山名宗全を頼るとともに,宗全はさらに内紛の渦中にある畠山家のうち畠山義就と結んで勝元らと相対した。そして義就は宗全の呼びかけに応じて1466年(文正1)12月,兵5,000を率いて入京し義政に謁見するのである。こうして各国の対立・内紛は勝元と宗全,ひいては将軍職後継の問題へと収斂されていく。1467年(文正2)正月17日,義就と対立する管領畠山政長は,自ら館に火を放って,上御霊神社の森(御霊林)に陣を張り,翌18日,義就とのあいだに戦の火蓋が切られた。これが応仁の乱勃発の序幕である。ついで3月,細川一族と山名一族の対立がまたもや表面化し,5月26日,両者のあいだでついに本格的な戦乱へと突入した。そして両軍の陣の所在により細川方を東軍,山名方を西軍と呼んだ。こののち,戦いは東岩倉の合戦,相国寺合戦などがあり,勝敗も一進一退を繰り返したが,大きな戦闘はほぼこの年のみで終わり,あとは小戦闘と略奪の連続であったといってよいが,一時期,30余万人の軍兵が動員されたといわれる。文明年間に入ると戦闘は下火となっていたが,その間,当初の勝元=義視,宗全=義尚・富子の図式が,勝元=義尚,宗全=義視とまったく逆転して義尚の将軍後継が発表された。下国する大名も増加するなかで,1473年(文明5),宗全・勝元が相次いで没し,両軍の戦闘はさらに無気力なものへとなっていったのである。この大乱は,日本を戦乱のなかに陥ると同時に国人の成長を促し,時代を下剋上=戦国時代へと突入させていった。一方,戦場となった京都から逃げ各国に下向した公家や商工業者も多く,彼らによって京都の伝統文化や技術が各地に伝えられていったことは見逃すことができない。また京都においては戦乱の渦中に身を委ねた人々が,そのなかから自衛手段を講じ,都市自治を育てていったが,これが16世紀初頭にいたり,町組として結実していく。

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