●王政復古(イギリス) おうせいふっこ
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イギリスのピューリタン革命およびフランス革命ののち,それぞれ王政が復活したこと。イギリスでは名誉革命まで,フランスでは七月革命までの時代を王政復古期とか復古王朝期と呼ぶこともある。【イギリスの王政復古】ピューリタン革命下のクロムウェルの護国卿政府は,その死後混乱に陥り,1660年2月マンクによって長期議会が復活して,王政復古の準備がなされた。同年5月,チャールズ2世は亡命先のフランスから帰国して王位についた。その際チャールズは「ブレダの宣言」を発して,革命中,国王に反対した人々に対する大赦を認めるなど,かなり穏健な政治姿勢を示して王政復古をスムーズに進める条件を整えた。宗教上の意見の相違に寛大な態度を示すなど,旧議会派にとってもきわめて好都合な路線を呈示したわけだが,これは当時チャールズの政治を支えていたエドワード=ハイド=クラレンドン伯の意向によるところが大きかった。1660年よりしばらくのあいだイギリス復古王朝は旧体制の全面復活を企てることなく,皇室庁など絶対王政政府の権力機構を廃止するなどして漸進的改革路線を歩むこととなったが,これまたクラレンドンの配慮によるところが大きかった。従来国王が議会の同意を得ないで一方的に行ってきたトン税・ポンド税などの課税を廃止したことも旧王政との大きい変化であった。しかしこのような穏健な路線を歩んだ王政復古の立役者クラレンドンも,カトリックへの傾斜を強めていった国王とはしだいに対立し,国教会体制を強化するために1661年以後「クラレンドン法典」と総称される非国教徒弾圧立法をつくっていくこととなった。第2次英蘭戦争がはかばかしくいかなかった責任をとらされて1667年8月にクラレンドンが失脚したことは,革命派との部分的妥協によって政局の安定を意図した初期の王政復古政権からの訣別を意味した。その後チャールズ2世の晩年とつぎのジェームズ2世の時代にかけて,復古王朝のカトリック化と反動化とはいよいよ急速にすすめられることとなった。チャールズもジェームズも,フランスからの財政援助と引き換えに,ルイ14世に対する政治的従属性を深めていったが,なかでもジェームズ2世は「信教自由令」をさらに徹底してカトリック教徒を権力の中枢にすえる政策さえとるようになった。このような国王の親フランス・親カトリック政策に対する反動が,親オランダ・親プロテスタントの名誉革命を招来する結果となった。
【フランスの王政復古】フランス革命下の混乱を収拾したナポレオン1世の帝政は1814年に崩壊したが,4月,フランス元老院は亡命していたルイ18世を王位に招き,ここにブルボン王朝が復活した。百日天下のとき王はしばらくベルギーに亡命したが,帰国後は立憲君主政による穏健な政治を志した。しかし国内には「国王よりもさらに王党的」といわれた過激な極右王党派の勢力が強く,このため王は1816年以後過激右派をおさえてリシュリューやドカーズなど自由主義的王党派を中心に安定した政治を行おうと試みた。しかし1820年には再び過激王党派が優勢となって反動政策を推進したため,自由主義者や共和派の反感を招き,王の中道的な安定政権の試みは成功をみないままであった。ルイ18世のあと王位を継いだシャルル10世は極端な過激王党派的意見の持ち主で,妥協的見解を退け,旧ブルボン王朝の伝統復活を試みた。「10億フラン法」といわれる亡命貴族に対する賠償法をはじめとする露骨な反動政策を強行して,穏和王党派や自由主義ブルジョワジーの反感を招くこととなり,1830年には議会に対する弾圧が契機となって,七月革命を招くこととなった。
〔参考文献〕浜林正夫『イギリス名誉革命史,上巻』1981,未来社
E.J.ホブスボーム『市民革命と産業革命−二重革命』1968,岩波書店