●王権(中世ヨーロッパ) おうけん
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【初期王権】人民の上に君臨する王の統治権。古くから,家父長権理念にもとづいて発生したと考えられるが,王権の絶対的な強さを示すため,王を神の子とし人民から超越したものとして表すことは,エジプトや古代オリエントの国々の歴史にみられた。しかし人間中心主義的思考の強かったギリシアやローマでは王の神格化はみられず,スパルタは二人制の王制をとり,ローマの初期王制も選挙制であったといわれ,王が人民から超絶するようになることはなかった。しかし地中海世界を支配したローマが帝政期に入ると,オクタヴィアヌスがアウグストゥスの尊称を得て自らをジュピター神の子としてたたえさせ,ディオクレティアヌス帝のときにはオリエント風の専制君主理念がとり入れられて,人民に超絶する皇帝理念を発展させた。ローマ皇帝権理念は,その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に受け継がれ,西ローマ帝国では,ゲルマン民族移動の混乱のなかで476年西ローマ皇帝位が断絶するが,しかしローマ皇帝権理念は,西ローマ帝国領域内に移動してきてそこで建国したゲルマン諸種族国家の王たちによって強く志向されることとなった。西ローマ帝国領域内に形成されたゲルマン諸種族国家は,それぞれの地域の豪族のなかの最有力者が種族王を称して形成されたものであるが,その種族王権は,豪族中の最強の第一人者としての実力にもとづいて,ゲルマン民族が信仰していたウォーデン神の子孫と観念され,ウォーデン神のカリスマをうけて修飾・誇示されていた。しかしローマの高度な文明に接するとともにローマ文明の影響を強く受けることとなり,ゲルマン種族王権もローマの皇帝崇拝や皇帝への忠誠などローマ皇帝権理念の影響を受けて発展し,種族王たち自身も,ローマ皇帝の伝統を受けた東ローマ皇帝の西ヨーロッパにおける代官の地位をめざすようになった。またローマ文明との接触とはキリスト教文明との接触にほかならず,ゲルマン種族王たちもキリスト教に改宗し,塗油を受けて聖別され,自らを神格化して王権を高揚しようとした。496年メロヴィング・フランクのクローヴィス王(在位481〜511)がランス司教レミギウスから洗礼を受け,508年東ローマ皇帝アナスタシウス1世からコンスルの称号を得てガリア支配権を認められたことは,初期ゲルマン種族王たちがローマの影響下に,ローマ皇帝権理念とキリスト教文明の権威をかりて王権の高揚をはかったことを示すものとしてきわめて画期的な事件であった。ゲルマン種族国家は,その後も,国家組織を固め国家の支配領域をひろめていくにあたってローマ文明・キリスト教文明に依存した。すなわち,固有の法をもっていなかったゲルマン種族国家はローマ法を借用してそれぞれの法典をつくったが,王たちはローマ法に準拠して立法するというその立法行為において,法と秩序を与える者としての王の実力を誇示したのである。また種族国家の統一と支配領域の拡大にあたってはキリスト教教会組織に大きく依存した。メロヴィング・フランクの宮宰カール=マルテル(在任714〜741)がボニファティウスのドイツ地方における布教に許可と保護を与えたのは,ボニファティウスが組織する教会組織を国政に利用するためであったし,800年カール大帝(在任768〜814)がローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝として加冠された事件も,カール大帝がローマ教会の権威をかりてフランク王国の発展をはかろうとしたからにほかならない。また962年神聖ローマ皇帝として加冠されたオットー1世(在位936〜973)が同年にマグデブルク司教区を創設して東方政策の拠点としたことも注目されるが,彼がドイツ国内における国王権強化のために教会・修道院の支持を求めて帝国教会政策を進めたことも,同様にキリスト教教会の組織と力をかりて王権を強化しようとした現れである。国王たちはまた教養ある教会人を国政に重用した。キリスト教にもとづく国づくりを進めていたイギリスのエドガー王(在位959〜975)は,グラストンベリ修道院長,のちのカンタベリ大司教ダンスタン(909ごろ〜988)を国政に重用し,自らも973年,イギリス王としては初めて本格的なキリスト教的戴冠式をあげたが,フランスにおいてもサン=ドン修道院長シュジェール(1081ごろ〜1151)は,王の最高顧問としてルイ6世・ルイ7世の弱体なカペー王朝をよく補佐したといわれる。【教皇権との対抗】中世初期のあいだは王権がキリスト教教会の組織と力に依存して発展し,キリスト教教会も王権の保護に頼るところがあったが,中世中期になって王権も教会組織もそれぞれ自立できるようになると,両者の対立が目立ってくる。俗界を統轄する王と精神界を統べるキリスト教教会とは,すでに中世の初期においても衝突することがあり,カール=マルテルが,騎士を主としたイスラーム教徒に対抗する必要上,教会領の一部を没収して騎士領としフランク軍制の改革を行ったことは,ヨーロッパ封建制成立の上で画期的な事件とみられているが,教会にとってはきわめて迷惑な俗権の介入であった。同様のことは,イギリスのマーシア王国のオファ王(在位757〜796)が,俗界領のほかに教会領にも世俗的な軍役負担を課して教会から非難されたことにもみられる。しかしながら,読み書きのできる者は聖職者に限られていたところから,教会人が王廷書記として活躍し国政の枢要な地位につくことが多く,司教でありながら国政に専念する者も数多く現れ,逆に,国政に功労のあった貴族や廷臣が,国政への貢献の報いとして王の推薦を受けて司教職につくことも多かった。こうしてしだいに王が自国内の聖職者叙任について大きな発言権をもつようになり,ローマ教会の意向を無視して王が自国内の高位聖職者を叙任することも多くなった。また当時は,俗人が私有する私有教会がきわめて多く,それらの聖職者はその教会を私有していた王侯貴族によって任命されるという風習があった。また私有教会でなくとも,司教の司教権はローマ教会から与えられるものではあっても司教が領有している世俗領についての司教の領有権は王によって認可されているものであるという,王側に都合のよい風習もあった。こうして聖職者叙任権はローマ教会にあるとする教会側と,聖職者叙任に王の意向を反映させようとする王側とのあいだに,いわゆる叙任権闘争がおこることとなり,有名なグレゴリウス7世教皇(在任1073〜85)と皇帝ハインリヒ4世(在位1056〜1106)との抗争などを生むにいたった。しかしこの教皇権と王権との対立には聖職者叙任の問題のほかにもう一つの局面があった。それは司教らの教会裁判権と国王裁判権との権限抗争である。司教らには信仰と道徳についての裁判権が認められていたが,しかし教会は人を裁くよりも人を救うことに力点をおいていた関係もあって,教会裁判はきわめてルーズでその刑罰もきわめてゆるく,しかも聖職者らは一般人の日常生活に深く立ち入って,立場の弱い人々に独断的な裁決を与えているという実態もあった。そのために教会裁判に対する一般の不満も比較的強く,治安秩序が乱れやすい原因の一つともなっていた。とくに12世紀のイギリスでは,公正な陪審制裁判を進めようとしたヘンリ12世(在位1154〜89)のとき,教会裁判のルーズな実態が露呈し,また犯罪を犯した聖職者に関する裁判権の帰属も問題となり,それをめぐりヘンリ2世とカンタベリ大司教トマス=ベケット(在任1162〜70)とが激しく対立し,事態はカンタベリ大司教トマス=ベケットの殺害という事件にまで発展した。しかし教皇権と王権との対立については,その後は,教皇側も王側もたがいに徹底的な対決を避けて譲歩し,叙任権闘争については,司教の司教権はローマ教会から,司教の領地領有権は王から受けるものであるとしたシャルトル司教イヴォ(1040ごろ〜1116)らの司教職の二分論にもとづいて,1122年にウォルムスの和約をみるにいたった。イギリスのベケット事件も,教皇側の反応が比較的ゆるく,ヘンリ2世もよく謹慎自重して,1172年アヴランシにおいて和解することとなった。
【封建制との競合】中世封建社会においては統治権は王と貴族とで分有されていた。統治権は王が独占するものではなく,王は,貴族たちに所領(知行)を与えるさいに,その所領に関する統治支配権をも与えるものであった。つまり王と貴族との共同統治が行われていたのである。王が忠誠な臣下に王領地の一部を所領(知行)として与え,その地域に関する統治支配権を与える場合もあったが,より多くの場合は,独立していた豪族(貴族)が王の支配下に服属してきたさいに,王は,その豪族の従来の支配地を改めて豪族の所領(知行)として追認し,その支配地に関する豪族の従来からの統括支配権を改めてその豪族の封権的特権として追認するという形をとった。いずれにしても中世封建社会においては王が単独で全国を統治するのではなく,豪族(貴族)たちに所領(知行)とその所領に関する地域的統治権を分与していた。中世が封建制,あるいは知行制社会といわれる理由がここにある。ところで,そのようにして王から貴族たちに分与された貴族たちの地域的統治権は,王から認可され追認された権限であるという意味で,本来は王が行使するべき王の統治権のいわば代行権であった。しかし貴族たちは必ずしもその統治権を王の忠実な代行者として行使するとは限らず,王の統治権の代行者以上の権限を,場合によっては王の意向に反し,まったく独立的な統治支配を行うことが多く,王国の統治と治安は乱れがちであった。封建社会は統治権の分有を建前としていたために,王国の統治と治安は,統治権を分有していた貴族たちの行動いかん,王と貴族たちとの協調関係いかんにかかっていたといえる。その点で貴族たちが王の絶大な至上権を認めていたイギリスでは,王国の治安は比較的よく保たれた。イギリス王権は,ノルマンディー公ウィリアムのイギリス征服(1066)に象徴されるような,強大な異民族征服者王権にもとづくものであったという事情にもよると思われる。フランスでは,王権がカロリング王権の古い伝統に守られてきわめて高い権威をもたされていたが,しかし代々そのフランス王にその実権がなく,貴族たちはそれぞれほとんど独立的に行動しており,フランス王権はわずかにパリ周辺と北東フランスに行われていたにすぎなかった。とくにノルマンディー公ウィリアムがイギリス王(在位1066〜87)になり,その後アンジュー伯と結縁してそこから出たヘンリ2世がアキテータ地方をも支配下に入れると,イギリス王は,フランス貴族でありながら,フランスの西半分を制して主君たるフランス王を圧倒することとなった。またドイツでは,オットー1世が神聖ローマ皇帝として加冠されたにもかかわらず,各地の部族大公の独立的な抵抗に悩まされ,帝国教会政策も,グラーフ職の官職化政策も成功せず,国内貴族の跳梁に苦しむこととなる。しかも神聖ローマ皇帝のキリスト教世界の保護という義務意識から,一方ではまたドイツ国王権の高揚をはかって展開されたイタリア政策も失敗し,かえってドイツ国内の混乱に拍車をかける結果となり,1256〜73年には大空位時代を現出するにいたり,1356年の金印勅書によって皇帝(国王)が有力な7大選帝侯によって選挙されるという慣行が生まれ,ドイツ国王権は発展しなかった。こうしてドイツにはドイツ全体としての統一が得られず,分立した貴族諸侯らの分邦(領邦)が分邦(領邦)国家の形をとり,分邦(領邦)君主権が発展していく。同じ事情は,古代ローマの伝統を伝えて都市国家が分立していたイタリアについてもみられた。
【中央集権と絶対主義王権】中世末期になると,十字軍の失敗や教皇庁の分裂などで教皇権が著しく衰微し,封建貴族たちも彼らの封建所領経営の危機に直面してその権限を失っていくが,それと反比例して王権が人々から期待されて成長してくる。本来王権が強大であったイギリスでは,没落しつつある貴族たちが,彼らの社会的権勢を維持していくために,しきりに王領地の譲与や中央の官職を求めて王の身辺にむらがって王の専制独裁化を促進したが,フランスとのあいだで戦われた百年戦争のあいだに両国には国家的国民的意識が成長し,両国の王権はそうした意識に支えられて発展した。また貴族にとって代わって,かつて貴族の所領の執事として治踏していた階層,あるいは荘園の有力農民層のなかから生まれたナイト・ジェントリ層は,貴族に代わって地方行政の実権を握りさらに中央政界に出て王の忠実な官僚としても成長していき,王の国家統一と中央集権,王権の高揚とその絶対主義的神格化に貢献した。また新しい商工業分野で裕福に繁栄してきた都市商人層も,従来の小規模な地域経済圏の古い拘束を嫌ってより大きな国家的規模の経済圏の統一を希求し,彼ら商人層も王権による国家統一を求め,王権もまた彼ら商人層と結託して彼らの富に新しい課税財源を求めていく。こうして中世末期からヨーロッパ各地に中央集権国家が成長してきて,王権は,封建貴族権を抑えて,ナイト・地主・商人層に与えられて国家を統一していき,絶対主義王権として発展していく。13世紀にイスラーム教徒を駆逐する国土回復運動が展開されたイベリア半島には,カスティリャ・アラゴン・ポルトガルのキリスト教国家が封建的アナーキーを克服して中央集権を進めていたが,とくに前2国の合併後成立したスペイン王国は,封建的貴族の勢力が比較的に弱かったこともあって,いち早く中央集権国家を形成し,海外に植民活動を展開して裕福な強大な王権を発展させた。フランスでも,その後,シャルル7世(在位1422〜61)はブールジュ詔勅を出してフランス王権をローマ教皇権から独立させ,百年戦争の終結後,全国統一と中央集権の体制を整え,ユグノー戦争後一時後退した王権も,ブルボン王朝アンリ4世(在位1589〜1610)のナント勅令によって新旧両教徒の対立をやわらげて進展し,中央集権が進んでルイ14世(在位1643〜1715)の絶対主義的専制王権への道を拓いていくこととなった。イギリスでも百年戦争を不利な形で終結させたが,ばら戦争によって封建貴族層の没落が促進され,ヨーク家の娘と結婚したランカスター家のヘンリがテューダー朝を開いてヘンリ7世(在位1485〜1509)となり,彼のもとに王権がナイト・商人層の支持を得て急速に発展し,テューダー絶対主義王権の基礎が確立された。フランスのアンリ3世によって宮廷付弁護士にとり立てられたジャン=ボーダン(1530〜96)は国家主権の絶対性を強調するいわゆる王権神授説を唱えたが,当時の各国の絶対主義王権に理論的基礎を与えることとなった。絶対主義王権は,中世封建社会における統治権の分有に終止符をうち,中央集権的近代国家形成の起点となったものである。そのころ国家的統一を欠いていたドイツ・イタリアでは分邦(領邦)国家,都市国家の君主権が絶対主義王権をめざしており,ドイツ・イタリアの統一は19世紀まで両国の宿願として残されることとなる。しかし絶対主義王権がかかえていた政治的・社会的・経済的諸矛盾は各国の市民革命によって破砕されていく。