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●王安石 おうあんせき

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 1021〜86(天禧5〜元祐1)諱を安石,字を介甫という。そのほかに半山・臨川・荊公・舒国公・金陵などの号がある。中国の宋代の政治家・文人。撫州臨川県の人で太原から移住した家の子孫。社会階層的には一地方官で終わった王益の三男。家族も多く家の経済事情は豊かでなかった。進士登第は1042年(慶暦2)で,簽書淮南判官・舒州通判・群牧司判官・堤点府界諸県鎮公事・知常州・三司変支判官・知制誥などを歴任し,第6代の皇帝神宗に翰林学士・参知政事(副宰相)に抜擢され(1069・煕寧2),翌年から同中書門下平章事や尚書左僕射兼門下侍郎として約10年間宰相の地位にあった。神宗の厚い信頼を受けた。参知政事時代に制置三司條例司を設け,多くの新法を企画実施した。彼の思想や政治理念を理解するためには,彼の政敵司馬光と比較して眺めることが便利である。王安石の学問・思想としては,周礼の精神に共鳴し,孟子を尊重したことが特徴である。また老・荘の思想に積極的理解を示し,信仰生活は禅宗への深い帰依者であった。これに比べて司馬光春秋学者であり,孟子への批判者である。老荘思想に対しては,これに傾いた答案を書いた科挙応募者は不合格にせよといったほどの老・荘否定者であり,仏教も国の財政を苦しめるから排斥せよという主張をした。両人はまったく反面教師的思想の持主であった。王安石は前述のような教養とおよそ16年間に近い地方官時代に得た体験をもとにして,彼独得の政治理念を編み出した。それらは復古主義的理想主義と批判されたが,実際は貧民救済の社会政策的理念,現実主義的実利主義の理念,埋もれている遺利を開発する積極的財政再建案などとして現れた。これらの理念にもとづいて彼は政治改革の具体案と実行の急務を訴えた意見書(万言書,Wan-Yen-shu)を仁宗にたてまつった。しかし保守官僚に取り囲まれた皇帝には採用されず,それの実行をみるには年少気鋭の神宗の即位まで10年間の歳月を必要とした。彼は在世当時から大地主階級・大商人階級が政権を構成していた旧中国時代には,史上最悪の政治家という酷評を浴びせられてきた。その理由は,彼が施行した新法はほとんど全部が大資産家階級やそこから出身した大官僚たちの利害に反したからである。また伝統的政治秩序を破壊する要素が多かったからである。しかし中国が新しい体制に脱皮するころから近代的評価に包まれるようになり,この傾向は諸外国の研究にも共通している。また彼には諸民族の社会体制に変革が訪れるころになると必ず回想されるという性格もそなわっている。

 著書には『臨川集』をはじめ『周官新義』『唐百家詩選』など多数がある。

〔参考文献〕蔡上翔『王荊公年譜考略』

梁啓超『王安石評伝』

佐伯富『王安石』冨山房

東一夫『王安石新法の研究』1970,風間書房

東一夫『王安石事典』1980,国書刊行会