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●オアシス農村 オアシスのうそん

アジア アジア AD 

 オアシスとは,乾燥地域における一連の可耕地のひろがりを意味することばであるが,通常その形態から,主に[1]泉性のオアシス,[2]山間・山麓の恒常河川沿いのオアシス,[3]外来河川沿いのオアシス,などに分類されている。このうち[1]は,アフリカやアラビア半島の砂漠などに多い湧泉の地のことであり,[3]はナイル川やティグリス=ユーフラテス川など,乾燥地域外に水源をもち,そのまま海にまで達する大河(外来河川)の沿辺に形成される広大なオアシスをさす。これに対して,[2]はタリム盆地周辺地域にみられるように,乾燥地帯にあってかなりの高度をもった山地から流れくだる尻無し河川によって形成されるオアシスをさし,いわゆるオアシス都市国家といわれるものの典型的な例である。ここでは,このうち内陸アジアを中心とした[2]の形態のオアシス社会を取り上げ,その農村部について概観しておく。

【内陸アジアのオアシス社会の特性】本来オアシス社会が,農耕に基礎を置いていたことはいうまでもないが,その利用できる水が絶対的に不足していたために,開くことのできる耕地が局限され,早くからオアシスとオアシスとを結ぶ中継貿易(隊商交易)が大きく社会の表層に浮かびあがっていた。このことは,こうしたオアシス地域が歴史的に東西世界を結びそれらを大きく発展させる要因ともなると同時に,この地の農業が,つねにその商業交易に比べて副次的な意味しかもたない原因ともなった。しかし,そうはいってもその生存の基礎が農業にあったこともまた事実であり,しかもそれが水利灌漑に全面的に依存していたことは,その管理・統制がこうしたオアシスを存続させる最低の条件ともなっていた。また近年では,各オアシスで産出され交易されていた絹・木綿・毛織物の存在にも注目されている。しばしばこれが,ラクダという船で結ばれた砂の海に浮かぶ人工的な島にたとえられているが,この表現はこうしたオアシス社会の特性を的確にとらえている。

【内陸アジアのオアシス農村】オアシス農村といっても,古代においてはそれがどのような構造をもっていたのかはまったくわからないので,ここでは,19世紀にタリム盆地の諸オアシスを訪れたフォーサイスの調査記録によって,その大体の農村部の構成をみるよすがとしたい。まず中心の都市部を核として,その周囲に農村部がひろがっているが,その最低の単位である家族集団の戸をオイと呼んだ。このオイは,だいたい4〜80戸ほどのまとまりをもって灌漑水路沿いに散在している。このオイの集合体がマハッラとなり,またこのマハッラの集合体がヤズとなってゆく。そしてこのヤズが2〜3以上集まってさらに大きな集合体であるケントが形成されることになる。つまりタリム盆地周辺オアシスの農村は,下からオイ→マハッラ→ヤズ→ケントという構成をとっていた。ただしワリハノフによる,下からオイリクマハッラ→ケント→ヤズという構成をとるという説もある。こうした農村部の大きな構成体であるケントが,通常行政文書などにみられる総荘といわれるものに相当し,これらがいくつか集まって初めて都城(本城)を中心とした一大オアシス群が形成されるのである。このオアシス農村においては,小麦・粟などの主要穀物類のほか,商品作物・手工業品などが多くつくられ,これらの集積所として,都市(本城)が最大の中心点となっていた。ただし,農村部においてもケントを中心として少なくとも1カ所,週に1度定期市が開かれており,オアシス農民にとってはこの方がより生活に密着したものとなっていた。またこの地では,灌漑が必須条件となっていたため,水に対する権利が土地に対するそれよりもはるかに優先し,その田土への水の割りあてにあたっては,各オアシス農村ごとに厳しい規制がしかれていた。

〔参考文献〕松田壽男『砂漠の文化』1966,中央公論社

ラティモア,中国研究所訳『アジアの焦點』1951,弘文堂

真田安「オアシス・バーザールの静態研究」中央大学大学院研究年報6,1978