●延暦寺 えんりゃくじ
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大津市坂本本町にある天台宗の総本山,比叡山上の伽藍と山下の里坊群で構成されている。785年(延暦4)に最澄(のちの伝教大師)によって開創された。初めは比叡寺とか比叡山寺などの地名寺号で呼ばれていたが,823年(弘仁14)に嵯峨天皇から延暦寺の寺号を賜わった。最澄は近江国分寺で得度し,東大寺で戒律を受けた。20歳のときに比叡山中に入り,草庵を建てて止観と思念にもとづく自己の宗教的境地をひらき,自ら手刻した薬師像を祀る小堂を建て,一乗止観院と名づけた。比叡山をもって「我が立つ杣」と呼び,法華経を中心とする教学の樹立に専念した。また「あきらけく後のほとけの御世までも光つたえよ法の燈」と詠んでともした法燈は,1,200年にわたって根本中堂に法燈を維持している。806年(大同1),中国留学から帰ると六所宝塔院を建て,法華経をもって日本の国土を安鎮し,その中心に比叡山を置くという新しい護国仏教の理念を打ち立て,平安新仏教の先駆としての活躍を始めた。822年(弘仁13)最澄没後の7日目に,比叡山上にも一乗戒壇の設立が許される。これにより,延暦寺は南都仏教から開放され,新しい天台教団としての独立も認められることになった。教団の組織としては六所宝塔院を受けてまず東塔院と西塔院が建立された。824年(天長1)には,義眞をもって初代の天台座主となし,その組織はほぼ完成するにいたった。第3代座主円仁は,東塔院を拡張し法華総持院を整備した。一乗止観院は,第5世座主円珍により整備拡張され今日の根本中堂の原形が成立した。これらおもだった堂塔を中心に,東塔には五谷(東谷・南谷・西谷・北谷・無動寺谷)が成立するようになった。834年(承和1)には,円澄が大比叡ケ岳の西麓にあった西塔院を改修している。法華法幢院と転法輪堂を中心とする法幢をかかげ,西塔にも五谷(東谷・東尾谷・南谷・北谷・北尾谷)が成立するようになった。比叡山の北塔は横河(よかわ)と通称されているが,これは829年に円仁が籠り,法華経の如法写経を行い,書写の経典を納めて根本如法堂を建てたことに始まる。のち首楞厳院(しゅりょうごんいん)が創立されると,横河も六谷(般若谷・香芳谷・都卒谷・戒心谷・解脱谷・飯室谷)に分かれ,「三塔十六谷」という,一山の規模がしだいに成り立った。横河には,のち良源(慈恵大師)と源信(のちの恵心僧都)が出ている。横河の教学は,密教の事相(加治礼祷)と浄土教信仰(他力信仰)を展開させたもので,東塔や西塔の聖道門的な信仰とは,一味違った対民衆的な信仰圏を成立させている。平安時代中期の史料によると,西塔の組織は東塔の約半分,横河は西塔の約半分といった規模(堂塔,僧侶ともに)である。この間,円珍門徒と円仁門徒が争い,円珍門徒は後唐院から,祖師の彫像や聖教をもち去り,大津市三井の地に天台寺門の園城寺を拓いている。山門派と寺門派の抗争は永くつづいて互いに寺塔を焼くことも少なくなかった。比叡山の三塔十六谷はまた「一山三千坊」とも呼ばれるが,これを運営する延暦寺領(山門領)は,831年に近江国分寺の供料を延暦寺の年分僧24名の供養にあてたという初期から,中世には,近江・畿内・北陸・山陰・東海・山陽・四国・九州の全域にわたる,巨大な荘園経済力を保有する教団となった。一山三千の僧侶は「一山大衆」と呼び,衆徒・堂衆・山徒の3階級に分かれている。伝統的な法儀に専念する県僧から武力を事とする僧兵にいたるまで,中世教団の典型的なあり様を示すものであった。1571年(元亀1)9月の織田信長による焼打ちは,一山の堂舎のみならず山門の保有した有形無形のすべてを壊滅させるものであった。秀吉と家康により復興され,正親町天皇から5,000石を安堵されて近世延暦寺の新しい歩みが始まった。根本中堂・大講堂・戒壇院・浄土院・釈迦堂・横川中堂・四季講堂・法華総持院などが再興され,里坊60カ坊,叡山学院・叡山文庫・比叡山高校と中学などを擁し,今日にいたっている。〔参考文献〕『天台座主記』『門葉記』『山門堂舎記』『叡岳要記』『九院仏閣抄』『天台霞標』『華頂要異』『天台宗全書』『近江国輿地志畧』
景山春樹『比叡山』角川選書
景山春樹『比叡山寺』同朋舎出版
村山修一『比叡山と天台佛教の研究』名著出版
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