●演劇 えんげき
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「演劇とは,俳優が戯曲のなかの登場人物になり代わり,観客を前にして,舞台上でことば・身体の動作・動きなどによって,劇的なる幻影をつくり出す芸能である」と定義される。ほかの芸能も,演者が生身の肉体を観客の眼前にさらし,観客との呼応のうちに何かを表現する点では,演劇と相違しないが,劇的なる幻影の創出を目的とするかしないかに違いがある。映画やテレビなどの,機械による再生芸術では,内にドラマを含んで劇的なる幻影を創出するが,生身の肉体を通しての,観客との直接的交流共感関係で相違する。幻影とは,それが虚構であることが認識されているイメージである。劇的とは,ある者と対立するあるもの−−ほかの人間・神・超自然的なもの・社会・社会悪・運命・境遇・あるいはその人自身のうちの相反する意志や気持ちといろいろ考えられるが−−との葛藤が,時間の経過とともに視聴覚的に顕在化し,やがてその葛藤がある状態に決着する様相である。その筋を示すものが戯曲であるが,戯曲は何も文字で書かれたものだけを意味しない。実際,16世紀にイタリアを中心にヨーロッパで栄えたコメディア=デル=アルテにしろ,初期歌舞伎にしろ,文字に固定された戯曲をもっていない。前者では,簡単な荒筋(シナリオ)があり,アドリブで間を埋めていったし,後者では,口立て式といって,口頭での打ち合わせで作品をつくった。随時観客の状況に見合わせて即興的にセリフをつないでいく方法は,ことばを介して思想を伝達する演劇ではなく,身体の動作によって表現の中心を形成する物真似脈の演劇では,18世紀までごく一般的であった。もちろん,戯曲のなかには高い文学性を有するものもあり,読むだけで感動を与えるが,ほかの小説や物語と違う点は,戯曲が舞台という空間を仮定し,登場人物の効果的な出し入れ・動きを一応計算しながら,対話の形式で書かれていて登場人物の性格や境遇などの説明文の欠如を大切とする点にある。別言すれば,俳優の参加があってはじめて,完成するような形式で書かれていることが必要だということである。【演劇の三要素】俳優・観客・戯曲を演劇の三要素というが,当然,これに劇場を加えることもできよう。が,劇場といっても何も今日いうところの立派な設備の整った建物である必要はなく,以上の三要素が交流するための空間であればよく,今日ではむしろ,何もないということをもって,舞台なり劇場の本質的姿ととらえる見方が強い。観客については,映画・テレビなどの機械を媒介しての再生芸術の観客とは,厳密に区別される。演劇の観客は,単に受身の鑑賞者ではなく,演劇創造に欠くことのできないパートナーとして,その目にみえない自らの内なる演技において,俳優の目にみえる演技に呼応することで,刻一刻,上演の質をつくっていくからである。ドイツの演劇学者ユリウス=バープは,演劇発生史の研究から,本来一者なるものから戯曲・俳優・観客が分かれてきたことを明らかにする一方,今日なお三者が三位一体の関係に立つことがよい上演の条件であると述べている。つまり,演者たちがつくりあげたものを,観客に賞味してもらうといったようなものではなく,戯曲と,俳優と観客の生身の肉体を介しての呼応関係が,演劇そのものだということである。
【演劇の誕生とその後の展開】長命・五穀豊穣・厄神退散などを祈願する儀式や,もたらされた幸福への感謝のマツリが,演劇発生の土壌である。古代エジプトは,その年のナイル川の洪水いかんによって,穀物の実りが,つまり人々の生命が大きく左右される地域であったがため,人々の神に対する祈りは真剣であり,それが春先に執行されるオシーリスの儀式である。穀物の精オシーリスと宿敵セトとの戦いがあり,戦いに破れたオシーリスの死体は,舞台の外に運び出される。代わって舞台に登場した使者が,オシーリスの死体は八つ裂きにされ,方々の地中に埋められたことを告げる。会衆は悲嘆にくれる。そこに,また別の使者が手に青い麦の苗の植わった鉢をもって登場し,このようにオシーリスが甦りましたと告げる。会衆は歓喜の叫びをあける。以上がオシーリス儀式の次第であるが,穀物の実りを予表するこのような共感呪術の儀式は,農耕を営むほとんどすべての地域にみられる。ここに演劇の原形がある。英雄叙事詩が,オシーリスとかセトといった相対立する者に,英雄としてふさわしい来歴・性格・台詞(セリフ)を与えるとき,演劇となる。豊穣祈願の儀式と英雄叙事詩の結合が,儀式が演劇に成長する基本筋道であるが,ほかの儀式やマツリの要素は,成長過程で参入し物真似的要素(演技)・場のありよう(舞台)・みる立場(観客)・みせる立場(俳優)などの観念をふくらませて,全体としての演劇(この場合,悲劇と名づけられたもの)の成立に貢献した。英雄叙事詩は,時の貴族や文化人の教養とするところであったが,庶民のあいだでは,イタズラ者の性格をもつ文化英雄の物語が人気があった。もともと庶民に親しい位置にあった文化英雄の登場人物が,庶民の表情と生活感情・態度を与えられて,舞台にのせられたものが笑劇である。孫悟空が庶民の姿になったものと思えばいい。笑劇や(笑劇的)喜劇の主人公が多くイタズラ者の召使であるのは,こうした発生史的事情による。悲劇と笑劇のあいだに,社会生活に対する知的な諷刺や批判をむねとする喜劇というジャンルがあるが,発生史的には悲劇や笑劇より遅れるとみるべきである。というのも,喜劇を喜劇たらしめるその批判的精神は,ある程度民主的市民社会が成長していることを前提とするからである。以上はドラマからみた演劇の発生史であるが,形態的には,円舞合唱隊の内から一人の,のちに俳優の名で呼ばれるところの者が出て,一段高い台に乗ったその者と合唱隊とのあいだで,対話と合唱のかたちでドラマが進行するとき,演劇が誕生したといわれる。一人の俳優を二人にしたのは,古代ギリシアの悲劇詩人アイスキュロスの創意だといわれるが,このことによって登場人物間の対話によってドラマが進行するかたちが生まれ,従来の叙事的(物語風)演劇に代わって劇的演劇が可能になったことは,演劇史上画期的な事件である。だが,古代ギリシア悲劇においては俳優の人数は3人を超えることはなく,そこで3人以上の登場人物を処理するために一人で2役,時には3役を兼ねる必要もあり,仮面が使用された。ヨーロッパ中世劇の主流である宗教劇では,キリスト教の教義上仮面の使用が禁じられ,3人以上の俳優が登場することが一般となった。この傾向は近世演劇になってもつづき,一人1役で登場人物間の対話によりドラマが進行するのが原則となり,合唱隊は消滅の方向をたどり,近代劇のなかで合唱隊は姿を消す。また,上演規模からいえば,概して古代・中世の何万人を対象とする屋外での上演から,近世以後,屋内に入り,数千人の中劇場から,千人以下の小劇場連動への変遷が指摘される。それに伴い,登場人物もスケールの大きな英雄・貴族から一般市民へ,さらに人間の心理や実存自体がテーマとなる。演劇自体の性格も古代・中世の共同体の演劇という性格は,時代とともに後退し,近世の王侯貴族への貢献芸能・近代の社会意識啓蒙の演劇・現代の実存の演劇へと推移する。
【西洋演劇史】ディオニソスの一代記を内容とする円舞合唱から生まれた古代ギリシア劇が,西洋演劇の起源と考えられ,以後歴史にそって,中世劇・近世劇・近代劇・現代劇といった区分が存在する。個々の演劇の詳細については,別項の説明にゆだねるとして,ここでは西洋演劇史の概念を述べる。演劇史は大きく,古典主義系演劇とバロック系演劇に分けることができ,前者は古代ギリシア演劇・近世フランスの古典主義演劇・汎西洋の近代劇と連なり,後者は,中世宗教劇・近世イギリスのエリザベス朝演劇,そして現代演劇の大半と系脈をなす。巨視的にみれば,両脈が交替しながらヨーロッパの演劇史を織りなしている。古典主義系の演劇は均整を重んじ構成が緊密で時と所と行為の関係が合理的であるのに比して,バロック系では時と所と行為が飛躍するところに特色がある。こうした2系脈の交替現象は,求心的均整をめざす方向と,遠心的解放をめざす方向の2方向が,人間性に両極性として内在するからにほかならないと考えられている。また,西洋演劇史の特色の一つは,前代の演劇を否定するという形で次代の演劇が登場して来る弁証法的演劇史である点で,日本などのように,古代に栄えた舞楽が中世に生まれた能狂言,近世に生まれた歌舞伎・人形浄瑠璃などと並存している演劇史と異なる。基本的に西洋では,ドラマそのものを残して各演劇様式は消滅している。次にこのことはある程度洋の東西に共通するが,大きくみて,そのテーマは,確信・懐疑・不信と変化して,各演劇は自らの発展のサイクルを終えるということである。これは社会の上昇期・上昇するなかに下降を予感する時期・下降期にあって,演劇が社会の生活感情を反映するからにほかならない(優れた演劇は様式の如何にかかわらず社会の生活感情と臍帯をもち,その先取り的反映であり,個人的創意・詩人的直観もすべて,この反映中に消化されたところに成立している)。懐疑は批判的精神に貫かれるかぎり健康であるが,批判的精神がなくなるとき不信になり,不信のやりきれなさは和解のテーマと結合し,または時間の経過のなかでマイホーム主義の精神的無関心のドラマに頽落してその演劇のサイクルは終わることになる。例をあげてみていこう。古代ギリシアは3人の偉大な悲劇詩人を生んだ。アイスキュロス・ソポクレス・エウリピデスである。アイスキュロスは掟を,ソポクレスは人間の理想を,エウリピデスは人間を描いたといわれる。意味するところは何か。アイスキュロスの名作『オレステース三部作』では,トロイア戦争から凱旋するギリシア軍の総大将アガメムノンを,妻のクリュタイメネストラが殺害する。トロイアに逃げた弟メネラオスの姦通妻ヘレネをとりもどすために,ギリシア国民を10年もの戦争にまきこんだアガメムノンは,死に値する罪を犯したといえよう。だが,彼を殺した妻クリュタイメネストラもまた夫の不在中,アイギストスという情人をつくっていた。殺害は正義らしくもあり,単なる情欲の結果ともみえる。アポロン神は,アガメムノンとクリュタイメネストラのあいだに生まれた王子オレステスに,復讐を命ずる。苦難の末に,オレステスは母クリュタイメネストラとアイギストスを殺して父の仇をとる。だが,その彼を待っていたものは,輝かしき成就ではなく母殺しの責め苦の始まりであった。第三部は,オレステスの母殺しの是非をめぐる裁判の場である。陪審員の票は6対6に割れるが,裁判長のアテナイ女神が無罪判決に1票を投じていう,私の復讐に走ることなく法の裁くところにまかせるようにと。この作品を通して,不正に対して敢然とたたかいを挑む反抗の大切さとともに,何よりも掟つまり社会の秩序を第一とし,その秩序を何人をも従わせるに十分なほど成長させることの重要が主張されている。彼の時代は,大地主や貴族の圧制をはねのけてアテナイに民主制がひかれた時期であり,かつ,大国ペルシアの侵略を撃退してアテナイが統一と繁栄を足場にギリシアの盟主にならんとする時期であった。ソポクレス『アンティゴネ』では,自己の信念を貫き通して甘んじて死刑の宣告をうける熾烈な人間アンティゴネが描かれている。ここでも秩序に対する作者の尊敬の念は変わりはしないが,それ以上に人間の信念や信念を貫き通す姿勢がクローズアップされている。それとともに秩序が固定して成長を止めてしまっていることがうかがえる。ソポクレスの時代は,ペリクレスに率いられたアテナイがギリシアの盟主として文字どおり黄金時代であったが,スパルタを相手とするペロポネソス戦争は,意志の統一と遂行とともに,政治家の卑劣なまでの策略の必要を教えていた。劇におけるアンティゴネと為政者クレオンの対決は,確信のふところにすでに懐疑の忍びこんでいる当時の社会を反映している。やがてペロポネソス戦争は長期化の様相を呈しはじめ,人々は正義の名を冠して始められたこの戦争自体に疑いをもち始める。「汝自身を知れ」を究極の命題とした哲学者ソクラテスの活動したのはこの時期であるが,ソクラテスの友人エウリピデスは『イポリュトス』そのほかで,神のいうことを鵜呑みに信じて破滅する愚かな人間どもの姿を通して無知・無批判な態度を捨て自分と自分のおかれた状況を批判的にとらえることを観客や読者に訴えかける。だが,戦争はアテナイに勝利のないことを決定づけ,人々は信念を失い,ただその日その場の安心と個人の幸福にとじこもるようになっていった。エウリピデスで悲劇はほぼ展開を止め,代わって人々の人気を集めた喜劇もこの時期,初期の痛烈な社会批判のエネルギーを失って,ただ面白おかしく人々の愚行をあげつらう風俗喜劇に落ち着いてしまい,ギリシア劇はサイクルを閉じる。近世演劇の一つの代表であるエリザベス朝演劇についても確信・懐疑・不信のサイクルを指摘できる。1588年エリザベス女王がスペインの無敵艦隊を撃破して意気上がるころ活動をはじめたシェークスピアの初期作品群は,俗に国民史劇といわれ,『ヘンリー5世』をはじめとして国家意識の昂揚をねらったふしがある。明るく力強い色調の作品群をへて,やがて『ハムレット』の誕生をみる。1年後には,イギリスの力と自信の柱であったエリザベス女王が没し,スコットランドからジェームズ1世を迎え,時代は下降線をたどる。ハムレットは,叔父にあたる現王クローディアスの王権の正当性を疑うばかりでなく,クローディアスに復讐せんとしている自分自身の存在の正しさをも疑う。そしてシェークスピア晩年のロマンス劇といわれる作品群がつづく。物語は不和で始まり,和解で終わるが,和解のうちに不協和音を響かせている。シェークスピア自身の作品はそこで終わるが,エリザベス朝演劇史の最後をしめくくるのはターナー・ウエブスターといった劇作家たちの,精神的無関心を示す作品群である。そこでは兄弟・姉妹・親子・主人と家来が表面と裏腹の心をもち,互いを自己の栄達出世の道具とし,毒殺・姦通・卑怯な計略などの横行する暗く視界のきかない世界を描いて,エリザベス朝演劇は幕をとじる。時代はピューリタン革命によって王制は崩壊する。近代演劇もまた同様のサイクルを示している。ニーチェの「神は死んだ!」に表明された超人思想を受けて,メシア(救世主)的演劇なるものが近代演劇の初期を占める。自らこの世のメシアとなって人類を苦難から救済せんとする登場人物は,しかし大衆にはせいぜい大言壮語の詐欺師としかみられず,孤独である。「私に全てを与えよ,しからずんば死を!」と叫んだイプセン『ブラン』の主人公は,大衆の怠惰・精神的無関心に憤りながら一人氷の山にのぼっていく。つづくのはイプセンの『人形の家』など社会問題劇と呼ばれるグループである。社会のかかえるさまざまな矛盾・悪弊がリアリズムの手法で地道に指摘される。このままで私たちはよいのだろうかと問いを投げかけ,社会と人々の意識の覚醒と改革を迫る演劇だといえる。そして不条理の実存的演劇が近代演劇運動の終わりを告げる。実存的演劇では主人公の多くが流浪者・片具者・老人・女・子供となり,文字どおり“よるべなき”人々であり,彼らの行動は,一貫した目的を欠いて,発作的であるが,ひどく鈍い。舞台の空間は牢屋か廃屋か迷路を感じさせ,人々は明日に希望をもって生きるのではなく,過去と幻想のなかに没頭して,かろうじて息をしているにすぎない。明るそうに見えていて,考えてみれば,信念もなく核の不安にとざされた出口なしのわれわれの時代を反映しているともいえよう。
【東洋演劇史】東洋においても,演劇が祭式から生まれたことに西洋との違いはないが,その変遷史は大分様相を異にする。一言でいえば,西洋の演劇史がドラマの歴史であるのに対して,東洋は歌舞主体の演劇史であり,ドラマの発達が希薄で芸能様式史ともいうべきものである。また,西洋演劇史のように歴史的区分に従って全体を概説することは,あまりにも各国各様の演劇史をもっているがため不適切である点も,東洋演劇史の特徴である。多様性の原因は,東洋には西洋のキリスト教のように中世に始まり今なおほぼ全地域にわたって人々の倫理観・価値観を支配する強制的思想が存在しつづけていないという点にあろう。
さて,東洋において最も早くドラマをもつ演劇なる形が成立するのはインドである。インドにおいては,インドの古代語サンスクリット語で俳優(nata),演劇(natYa)の根幹に踊る(nat)という語があることが象徴するように,踊りの入らない演劇は少なくとも西洋の影響下に成立する近代劇の時代までない。また,インドの国民性である雄大な構想力と理想主義は,天地を舞台としての恋愛と戦いの奇想天外な物語を生んだが,ともすれば結果のわかりきった善玉・悪玉のワンパターンのおとぎ話になりがちであり,鋭く現実生活の真実に迫るといったようなことは不得意である。2大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」と仏教説話「ジャータカ」が戯曲のおもな題材源であることからも推量されるように,インドの古典劇は物語的歌舞劇である。古典劇中第一の傑作は,5世紀にインド古典劇の黄金時代を築いたカーリダーサの『シャクンターラ』である。知識人のことばであるサンスクリット語で書かれた古典劇は7,8世紀に再び隆盛をむかえるが,10世紀にイスラーム=トルコの侵略をうけるに及んで演劇自体も急速に衰退し,今日までこれに代わる本格的演劇を生むことはなかった。ただ地方地方に活発な民俗芸能をみることができる。たとえばインド南西海岸マラバールのケララには,物語舞踊カタカリがあり,ムドラと呼ばれるコード化された動作の型があって,ムドラの連続によって物語を展開していくことで世界的に有名である。インドの近代劇は,長くイギリスの植民地であったこともあって,シェークスピア劇の上演を通してその土台を修得した。
中国における本格的演劇の成立は,唐代の伝奇物語や仏教説話をもとに作劇された北宋(960〜1115)の雑劇(別名,北戯)まで待たねばならない。中国芸能自体は非常に古いが,歌・舞・楽・優(俳優術)が個々別々に発達し,ようやく西暦140年ごろ「百戯」として一つの上演に組み込むことが一般化する。以上の四つの要素物語的舞踊として一つの作品中に組織されるのは六朝時代で,この傾向は隋唐時代「戯劇」として宮廷保護のもとに様式的確立をみる。この時期はほかに,滑稽問答劇「参軍戯」があったが,そのセリフ主体の演劇と従来の歌舞主体の「戯劇」が一つになって,宋代に雑劇が成立したとみるべきであろう。雑劇の伝統は,次の元の時代に元曲となって完成をみる。民族的英雄関羽を描いた関漢卿『単刀会』,科挙(官吏登用試験)合格をめざす一青年の青春を通して庶民感情をとらえた『西廂記』など,国民性と庶民の現実に目を開いた作品が生まれるのもこの元曲である。だが,元曲は作劇・上演に厳しい規則を設けてい,それを嫌った次代の南宋の人々は,形式の自由な「南戯」をつくり,明代には当時流行の歌唱法「昆山腔」と結合して昆曲と呼ばれる。清代には,明代と民族的違いもあり,昆曲に代わり地方の演劇であった「三慶」「四喜」「春台」「和春」が北京に進出結合して京劇を生む。京劇では,役柄が生・旦・浄・丑・未と分かれていて,役者は生涯をかけて一つの役柄に専念することで芸達者を生み,芸とドラマと歌舞の華麗さとアクロバティックな躍動で見事な全体演劇をつくった。この京劇と南方の「越劇」が中国古典劇として知られる。一方,中国の近代劇は,話劇と呼ばれ,西洋の近代劇に学んだものでなく,日本の新派・新劇の学習から出発したもの。1950年前後から,写実主義的リアリズムを基盤として,鋭く中国の国民性と社会問題を衝く郭沫若『屈原』,老舎『茶館』らの名作を生む。
4世紀以前の朝鮮は演劇の萌芽期で,劇的構成をもつ芸能の成立は4世紀以後。とくに新羅時代,朝鮮統一の原動力となった青少年軍事組織「花郎」集団が,彼らの教養課目の一つとして歌舞を修めたことが大きく,唱劇など朝鮮演劇の基礎となる。唱劇は,花郎の制が廃止された後は民間の巫女・巫男が担い手となって今日に伝わるが,しいたげられた民衆の哀感と抵抗の歌を詠んでいる。一方,4世紀はまた「剣舞・処容舞・五技・無得舞」など多少とも劇的構成をもつ4大仮面劇が生まれた時代でもあり,とくに処容舞は威厳と華麗をそなえた歌舞劇としての様式的完成をとげて今日に伝わる。処容舞などが遅くまで宗教的あるいは行事的芸能であったのとは反対に,市井にあって従来の仮面劇を吸収した仮面劇が山台劇(のち,山台都藍劇)である。これは脚本をもつセリフ主体の本格的演劇であり,テーマは一貫して破戒僧や両班(リャンバン)と呼ばれる特権階級の腐敗の諷刺である。山台都藍劇のなかでも,鳳山の仮面劇はその躍動的演出において有名。近代劇の活動は長く日本の新派・新劇の模倣であったが,朝鮮独立と前後して朝鮮の人々の思想と生活に根ざした作品が生まれる。
ドラマとしての本格的演劇をもった地域は以上,インド・中国・朝鮮そして日本を代表とするが,そのほか,ジャワの影絵戯・タイの宮廷舞踊・バリ島の勇壮華麗な舞踊劇・セイロンの悪魔仮面舞踊・モンゴルの跳鬼舞踊など,様式的完成をみせて,劇的構成に発達しているとはいいがたいが,それぞれの地域の風土と信仰を色濃く反映している。仮面劇や歌舞劇が大勢を占め,反面シリアスに個人と社会の問題を追究する作品が乏しいのも,全体としてみれば気候温暖な東洋の風土性に由来しよう。
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