●エンクロージャー
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イギリス農業史上、いわゆる開放耕地や荒地・共有地などを私有地として生垣そのほかの垣によって囲い込んだこと。“囲い込み”と訳すことも多い。中世以来のマナー制度のもとでは、耕地は相互の境界が明確でない(開放耕地)うえ、各農民の保有地は相互に複雑に入りまじっており(混淆耕地)、このことが共同体による共同作業を不可避にし、農業改良を阻害する要因となっていた。“囲い込み”つまり開放耕地の閉鎖地化は、耕地の統合と所有権の一元化を通じて農地および農業の改良を促進する目的で、おもに16〜18世紀のイギリスで展開されたが、他の諸国にも類似の現象は認められる。しかし、他方では、家畜の放牧地・燃料採取地などとして、共有地を重要な生活基盤としてきた貧農にとっては、“囲い込み”は従来の生活の破壊、賃金プロレタリアートへの転落を意味した。エンクロージャーがしばしば“農業革命”と同義的に考えられるのも、それが資本主義的生産関係をつくり出すうえで最も重要な要因の一つであったとされるのも、このためである。イギリス史上、エンクロージャーがとくに盛んになったのは16世紀(第1次エンクロージャー)と18世紀後半(第2次エンクロージャー)とである。
【第1次エンクロージャー】15世紀末以降、イギリスが毛織物輸出国として成長してゆく過程で、商品としての羊毛生産を目的とし、耕地の牧場への転換がはかられた。領主および富農たちによる暴力的な土地収奪を伴ったこの16世紀の“エンクロージャー”は、牧場化された囲い込み地がごくわずかな労働力しか必要としなかったこともあって、貧農の離村・浮浪者化をひきおこし、深刻な社会問題を生んだ。「羊が人間を食う」と評したトマス=モアをはじめ、当時のヒューマニストの多くはエンクロージャーを非難し、また議会や絶対王政の当局も、しばしば禁止を試みたが成功せず、1601年のエリザベス救貧法の発布を余儀なくされるような社会的混乱に陥った。しかし、16世紀の社会問題をことごとくエンクロージャーの結果とするのは行きすぎで、1455年から1607年までをとっても、牧場化を伴ったエンクロージャーが行われたのは、全耕地の2%にも達しなかったといわれる。人口が急増し、羊毛より穀物の価格の方が急騰しはじめた16世紀後半以降は、穀物栽培のためのエンクロージャーが多くなったため、離村せざるをえなくなった者も少なかったと思われる。
【第2次エンクロージャー】17、18世紀を通じて、エンクロージャーはそれなりに進行したが、それが再び猛威をふるうのは、産業革命が展開される18世紀後半である。この第2次エンクロージャーは、[1]羊毛ではなく、穀物生産を目的としていること、[2]議会法を根拠としていちおう合法的な体裁をとって展開されたことを2大特徴としている。囲い込まれた土地には、“ノーフォーク農法”と呼ばれた、生産性の非常に高い新農法が採用されることが多く、穀物ばかりか畜産物の大増産にもつながった。“第2次エンクロージャー”が“議会制エンクロージャー”の形態をとった事実は、それが中・小農民の没落をひきおこさなかったことを意味するのでない。事実、すでに衰退過程にあったヨーマンリーは、この過程で完全に消滅し、大地主とその地主から借りた土地を経営する農業資本家(ファーマー)と賃金労働に従う農業労働者という三つの階層が成立した。改良のための固定資本を地主が、運転資金を資本家が、労働力を労働者が提供するこの“三分割制”は、近代的・資本主義的なイギリス農業の特徴となった。しかし、他方では、ノーフォーク農法が採用された農地では、囲い込み前より多くの労働力が需要されたから、これをただちに工場労働力の供給に結びつけるのは正しくない。1700年には、イギリスの耕地の過半はなお“開放耕地”であったが、1820年になると、〈議会法によって囲い込まれることなく残っている開放耕地が3%を超えている州は、せいぜい6州くらいしかない〉とされたが、共有地や荒地も、ピークの1761〜1815年のあいだにおよそ150万エーカーが囲い込まれた。
〔参考文献〕小松芳喬『イギリス農業革命の研究』1961、岩波書店
権名重明『イギリス産業革命期の農業構造』1962、お茶の水書房
