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●燕雲十六州 えんうんじゅうろくしゅう

アジア 中華人民共和国 AD 

中国、五代の後晋のセキケイトウ※注1※が、契丹(遼)の授助を受けて後唐を滅ぼし、後晋を建国した。その代償として936年(天福1・天顕11)彼が契丹に割譲しあるいは938年(天福3・会同1)、以後係争の的となった地である。180余年間、北宋末まで契丹人が統治した。当地は幽薊幽燕燕代などとも呼ばれ、燕雲の呼称が盛んに用いられるようになったのは、北宋第8代徽宗のときからである。燕は遼の建てた燕京(宋では幽州)をさす。長城の南まで支配下に入れた遼の利益は、政治・軍治・経済の各方面においてきわめて大きかった。一方、16州を失った南の国々は政治的・軍事的に深刻な圧迫感を受けた。故地回復をスローガンに兵を用いた後周の世宗は、瀛(えい)・莫(ばく)・易(えき)の3州を回復し、北宋第2代太宗は失敗している。また、宋代に易州(完全に遼の領土化したのは989年(端拱2)から)を失っているので、15州となった。北宋第3代真宗のとき1004年(景徳1)に擅淵の盟約が結ばれると、一時的に宋・遼両国間で紛争がおこったこともあったが、遼1代が終わるまでほぼ平穏に推移した。徽宗は東北地方に金がおこると、この新興の金の軍事力を利用して宿願の故地回復を考えた。1122年(宣和4)宋と金が協力し、南北から遼を攻めることになり、宋が幽州を、金が雲州を攻めたが、宋は失敗した。宋は遼を破った金に、銅銭・糧などを提供することで、1123年(宣和5)6州(幽・・檀・順・タク※注2※・易)および遼が増置した景州(河北省遵化県)だけを久しぶりに回復した。しかし、同年、金の太祖阿骨打が病没し、太宗呉乞買が代わって即位すると、金の宋に対する政策も変化し、両国関係は悪化していった。ついに靖康の変(1126〜27)がおこり、徽宗・欽宗は金に捕えられて宋は一時中絶し、燕雲16州はもとより、華北の地はほとんど金の領土と化した。後晋の割譲地は、現在の北京・大同を中心とする河北省・山西省にまたがる、長城の南に沿う16州である。

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