●エルフルト綱領 エルフルトこうりょう
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1891年に,エルフルトにおける党大会において採択されたドイツ社会民主党の綱領。長らく同党の公式の立場を規定することになる,マルクス主義的理論が,盛りこまれている点で,歴史的な重要性をもつ。【採択の歴史的背景】1860年代におけるいわゆるラサール派とアイゼナハ派の形成から出発したドイツの労働者党の運動は,1875年のゴータにおける両派の合同によってドイツ社会主義労働者党の誕生をみ,新しい段階をむかえた。ところが1878年にビスマルクによって社会主義者鎮圧法が制定されたため,同党は以後12年間にわたって非合法化され,試練の時期に入った。だが,この時期にも秘密組織などを通じて党の勢力は伸びつづけ,また,マルクス主義が党内に浸透して党の団結も強まった。そして,1890年には鎮圧法が失効し,党は再び合法化されるにいたったが,これを機会に同党はドイツ社会民主党と改称し,さらに翌1891年のエルフルト党大会でそれまでのゴータ綱領に代わるものとしてエルフルト綱領を採択した。主としてその起草にあたったのはカウツキーである。
【綱領の内容】綱領は,理論や原則を明らかにした前半と,具体的な要求項目を掲げた後半の二つの部分よりなる。前半部分は,上記のような成立事情を反映して,マルクス主義的立場から次のような主張を展開している。[1]ブルジョワ社会の発展とともに中間層は没落し,社会は少数の資本家および大土地所有者とますます貧困化する多数のプロレタリアートとの2大陣営に分裂し,両陣営間の階級闘争は尖鋭化する。そして,恐慌は破壊的となり,社会は全般的不安定状態におちいる。[2]資本家的私有を社会的所有へと転換する社会的変革によってのみプロレタリアートを含む全人類の解放は可能であり,この目標にむかって労働者階級を指導するのが党の任務である。[3]労働者階級の利害はすべての資本主義諸国において同一であり,党はほかのすべての国の労働者との一体性を表明する。
綱領の後半の具体的要求としては,[1]あらゆる選挙についての普通・平等・直接・秘密選挙権および比例選挙制度の採用,[2]人民の直接立法,人民による官吏の選出,[3]徴兵制に代わる民兵,調停裁判所による国際紛争の仲裁,[4]宗教は私的問題であることの宣言,[5]学校教育の非宗教性……などの10項目があげられ,さらに労働者階級保護のための当面の要求として,[1]最高8時間労働日の制度の確定や少年労働・夜間労働の禁止等のための立法,[2]すべての営利企業の監督,労働局などによる労働事情の調査を統制,[3]団結権の確保……など5項目が列挙されている。
【綱領をめぐる動向】ゴータ綱領がラサール主義の色彩の濃いものであったのに対し,エルフルト綱領は,鎮圧法時代の歴史を反映して,マルクス主義的性格の強いものになっている。しかし,資本主義の破局を予測し,革命を説く綱領の前半部分と,個別的・具体的要求を掲げた後半部分とのあいだには矛盾もあった。しかも,その後の現実の歴史が中間層の没落・労働者の窮乏化・恐慌の激化などの点で綱領の予測を裏切る方向に発展したため,1890年代半ばごろよりベルンシュタインらによる修正主義の台頭をみることになった。エルフルト綱領に述べられているような革命理論を棄て改良主義に徹すべきだというのがベルンシュタインらの主張であったが,この立場は党の大勢とはならなかった。党は,実際には改良主義への傾斜を深めつつも,公式の立場としては綱領中のマルクス主義的理論に固執し,日常の実際活動と理論との乖離を克服しえぬまま第一次世界大戦にいたった。
1917年には党は多数派社会民主党と独立社会民主党に分裂し,前者は1921年にゲルリッツ綱領を,後者は1919年にライプツィヒ行動綱領を採択するが,エルフルト綱領中のマルクス主義的理論はワイマール時代の社会民主党にも引き継がれていく。
〔参考文献〕W=アーベントロート,広田司郎・山口和男訳『ドイツ社会民主党史』1969,ミネルヴァ書房安世舟『ドイツ社会民主党史序説』1973,お茶の水書房