●エリザベス1世 エリザベスいっせい
ヨーロッパ 英国 AD1533 チューダー朝
1533〜1603(在位1558〜1603)イギリス女王。テューダー朝に出た5代目の君主。ヘンリー8世の次女として生まれる。母はアン=ブーリン。誕生の事情からみればイギリスの宗教改革と双生児の関係にあるといえる。生後2年と8カ月にして母を失い,姉のメアリ1世と同じ地位におとされたが,父王からは愛情をもって遇せられていた。早くから才気煥発,人文主義的教育を受けてルネサンス型君主としての素養を得た。初めの師はウィリアム=グリンダル,のちにロージャー=アスカム。後者は彼女を絶賛している。自身も学問を好み女王になってからも勉学を断つことがなかった。父王の死(1547)を転機として苦難が始まる。エドワード6世のときにはシーモア兄弟の権勢争いにまきこまれて執拗な取り調べを受けた。メアリの治世に入ると信仰上の相違もあって事態はいっそう深刻となり,カトリックへ改宗する決意を示したが姉の疑心は去らず,トマス=ワィアットの反乱(1554年1〜2月)にかかわりがあるとして,一時ロンドン塔に投獄された。いずれの場合にも彼女の誠実さあふれた弁明が自身を救ったといえる。1558年11月姉の死去によって王位を継承,ただちにウィリアム=セシル(のちのバーリー卿)を秘書官長に登用,政治の有力な伴侶とした。戴冠式は翌年の1月半ばに挙行されている。ここに44年余にわたる治世が始まるが,生涯を通じて夫君を迎えず難局にあるイギリス王国と女王の威信を保つために愛をも犠牲にしたといえる。かなり巧みな演出家であったことは事実だが,国民は“ベス”の愛称をささげて尊敬し,かつ親しんだ。考察の便宜上全治世を次の3時期に区分する。1.初期:フランスとブロワ条約が締結する(1572)ころまで。エリザベス体制の成立期である。注目すべきできごととしては,[1]首長令と統一令の議会通過(1559)をもって国教会を復活,1563年の聖職者会議では“39カ条”を制定,国教会の中道主義といわれる教義的立場を明確にした。[2]対フランス戦争の終結でありカトー=カンブレジの和約(1559年4月)がこれを可能にした。その後のスペインの強大化は両国を接近せしめ,1572年の同盟(ブロワ条約)締結にまでいたった。[3]スコットランド問題の解決。エジンバラ条約(1560年7月)の成立でスコットランドをフランスから切り離し,ブリテン島統一の素地をつくった。新女王メアリ=ステュアートが内乱に敗れて亡命してくる(1568)とこれを幽閉し,スコットランド内の新教を維持して親英的な政府の成長をはかった。[4]経済・社会政策の第一歩として1563年に貨幣の改鋳を命じ,職人法・救貧法・牧羊囲い込みを抑える法などを制定する。
2.中期:ブロワ条約成立以降スペインとの開戦(1585)にいたるまで。体制の安定期である。このあいだイギリスはおおむね平和を享受できた(隣国におこった騒乱が幸いしたともいえる)。1573〜78年の5年間はとくに平静,「年代記は空白に近い」とされるほどである。
3.末期:多事多難。[1]オランダ独立の援助と海上冒険者(ドレークら)の活躍が原因となって久しくつづいたスペインとの冷戦が熱戦に転化し,1588年7月アルマダを撃破したが,戦いは終結せず財政を苦しくした。[2]中期においても不穏の状態にあったアイルランドで反乱がおこり(1595),スペインの支援を得て拡大し,女王は鎮圧に苦悩する。[3]1594年以降5年間にわたる穀物の不作,食料価格の暴騰が社会不安を招来し暴動が頻発した。[4]1601年2月寵臣エセックス伯の反乱は,女王の晩年を痛ましいものとした。治世の初・中・後期は以上であるが,なお全般的なことを次に記す。
[1]議会の成長。女王は必ずしも議会を好まなかったが,しだいに発言を強めていき,1601年には独占特許を取り上げて女王と争った。[2]経済的にみて,全治世は繁栄期でなく不況に悩まされていたとする説が有力。その結果が海上進出となり大英帝国の基礎を築くこととなる。[3]ジェントリの台頭期である。社会の主勢力となり庶民院を支配し宮廷にも進出した。[4]イギリス=ルネサンスの極盛期である。とくにフィリップ=シドニー・エドモンド=スペンサー・シェークスピアらが出て,文学とくに演劇の輝かしい開花がみられた。
〔参考文献〕ニール,大野真弓・美樹訳『エリザベス女王』1975,みすず書房
植村雅彦『エリザベスとその時代』1973,創元社
植村雅彦『エリザベス1世』1981,教育社
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