●江戸町人 えどちょうにん
アジア 日本 AD
江戸時代の大都市江戸に居住した町人。江戸幕府によって建設された惣城下町江戸は,寛永10年代(1633〜42)に一応の完成をみた。家康は1590年(天正18)の関東入国以来,江戸を領国の中心として城下町の発展に努力したが,当初は三河以来の町人と関東に北条氏時代から居住していた人々が中心であった。1600年(慶長5)以降,町づくりは大規模となり,諸国から江戸に入り込んだ人々が江戸町人の源流となる。【町人の種類】江戸における正式の町人(本町人)は,家屋敷を保持する家持町人である。彼らは地子(地代)は免除されていたが,代わりに種々の課役を果たすことが義務づけられていた。ところが17世紀ごろから土地の売買が激しくなると,住居とは別に土地を所持するものが多くなり,これを地主(居住する町に土地をもつ者は居付地主)と呼び区別している。地主所有の土地は,家守(家主)という管理人に経営が任されたので,町々の運営の中心が家守層となった。つまり,江戸町人の主体が地主・家持・家守といわれる3種となり,町政の実権を家守層が握るようになっていった。これに対し,地借人・店借人は正規の町人とはみられなかったが,広い意味では彼らも江戸町人と考えてよいだろう。
【江戸町人の人口】町人の人口が明確にわかるのは1734年(享保19)の53万人余からである。その3分の2は男性であり,江戸が地方からの流入民で成立していたことがわかる。しかし,この数は町奉行の支配範囲のみのもので,実際にはより多数の人々が江戸町人の意識をもっていたと思われる。この結果,武士の数を推定して18世紀中ごろには,江戸の人口は100万人を越えていたと考えられている。町奉行所の調査では,幕末でも町人人口は最大で58万人弱であった。しかし,男女の比率はほぼ同数に近づいている。これらの町人の大多数は小商人・小職人・人足といった下層の店借町人であり,物価の高騰や流行病などによって生活不安に陥った。幕末期には町人の約80%がこうした貧窮の町人であった。
【町人意識と文化】江戸は諸国入り込みの土地であり,江戸に住む町人のすべてが江戸町人意識をもっていたわけではない。とくに関西に本店をもつ江戸店では,支配人以下奉公人にいたるまで国言葉を使用し,江戸にとけこむことはなかった。しかし,江戸に定着した札差商人や魚河岸の商人・木場の商人などに代表される人々は,江戸根生いの町人としての意識をもつようになる。職人なども同様の意識をもってくる。こうした人々が武士や流入民に対抗した精神が「江戸ッ子」意識として強調されるようになる。この意識は下層の町人にもみられ,いわゆる3代つづいた者は江戸ッ子であるといわれるようになっていた。それはさらに,江戸生まれの武士階級にも共感や同調を生み出している。「いき」「はり」「きおい」といった美意識は,これら江戸町人の行動様式として確立したものである。江戸ッ子意識は,火災都市江戸に特徴的な「宵越しの銭を持たない」といった享楽的な面もあるが,これは大消費都市であり,災害復興による生活の可能性が存在していたことも示している。江戸町人たちは,歌舞伎・音曲・錦絵・文学など多方面で独自の文化を生み出し,また支持してきた(年中行事を初め,行事や開帳などに常時参加することができた)。これらの行動文化は町人生活に欠かせぬ要素となり,現在にいたるわが国の近代的都市住民の生活文化の底流の一つとなっている。
【下層町人】江戸住民の大多数を占める下層町人は,いわゆる雑業層として上層町人の経営する土地に居住する店借人であった。彼らの多くは長屋の住民で,その日暮らしのため,米価高騰などを理由に,享保・天明・慶応の3回の打ちこわしをおこしている。幕府は寛政改革における町会諸政策にみられるように,町共同体の再編成による救民制度をつくって対応しようとした。
〔参考文献〕西山松之助編『江戸町人の研究』1〜5,1972〜78,吉川弘文館
![]()