●絵解 えとき
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経文・説話や寺社の縁起の類の内容を人々に説明し語り聞かせるために描かれた絵物語・絵草子。経典そのものの教化宣揚のための曼荼羅(まんだら)や変相図,釈迦を題材とする涅槃図や八相図,寺社の宣伝のための祖師高僧伝絵・寺社縁起絵・参詣曼荼羅,英雄の最期や物語・伝説類を絵に描いたものなどがある。また,それらの内容を解き語ることを職業とする人々をさす場合もある。歴史的にはインドにおこり中央アジア・中国をへて日本に伝わり独自な展開をした。日本に現存する最古の記録は,藤原良房建立の貞観寺に参詣した際,太政大臣堂の柱に描かれた「釈迦八相図」を寺僧から絵説きされたという931年(承平1)の記事である。つづいて『台記』には,四天王寺の絵堂で「聖徳太子絵伝」の絵解きが行われたことが記され,またそこに専属の絵解法師がいたことが『民経記』(1229)にみえる。平安時代から日本の物語は絵と密接な関係である場合が多いが,皇室や貴族たちは挿絵がついている絵草子や絵巻物の本文を読ませて耳で聞きながら絵を眺めたと思われ,その伝統は室町期の御伽草子類まで長くつづいたと考えられる。この時代,絵解きは皇室や貴紳たちを対象にしており,高層が仏寺堂塔内の壁画や障屏画(しょうへいが)を説き語るものだった。鎌倉時代になると絵解きは宗教的なものから芸能化が急速に進み,話芸としての性格が強まる。寺社に属する絵解法師と呼ばれる下級の絵解僧や,姿かたちだけは僧形の散所(さんじょ)生活者によって行われるようになり,聞き手も大衆になってきたため,内容も興味本位なもの,当意即妙なものへと変化していった。室町時代には絵解法師のほかに巷間に身を置き貴紳の邸宅に出入りする俗人の絵解きも出現した。「三十二番職人歌合絵巻」には千秋万歳法師と対になって絵解きする人物が描かれており,俗体の侍烏帽子・小素襖をまとった有髪の男子で琵琶を膝に置き,前に出した箱の中から取り出した絵を雉子の羽のついた棒で指示し説明する諸国巡回の大道芸人の姿となっている。また一休宗純著『自戒集』(1455)のなかにも〈えときが琵琶をひきさして,鳥帚にて,あれは畠山の六郎,これは曾我の十郎五郎なんど云に似たり〉の詞句があり,文学的内容の俗人絵解きの芸能が述べられている。このころから多人数が一度に鑑賞することができ,各人が各場面を一覧できる異時同図の壁画の特長を継承した掛幅絵がそれまでの絵巻に代わってひろがっていった。また俗人絵解きのなかには,熊野比丘尼(くまのびくに)や絵解比丘尼と呼ばれる女性たちも出現していた。熊野牛王(くまのごおう)や護符類を配って籾集めをする際に,「観心十界曼荼羅(かんじんじっかいまんだら)」を用いて女子供を前に即興的な絵解きを行っていた。「洛中洛外屏風図」のなかにも,京都の大仏殿に尼僧が掛軸を前に絵解きする姿があるが,これも熊野比丘尼の類である。絵解比丘尼は江戸時代まで存在した。絵解きの起源は古く東洋に発しているが,インドの『有部毘奈耶(ウブビナヤ)』巻38には五趣生死輪図を絵解きすることを指示しており,中国の敦煌などでも仏教的な変相壁画が絵解きされている。発見された多数の文書のなかには変文と題するものがあるが,これらは絵解きのための種本または台本と思われ,白話体の散文と韻文とが交互に連接した形式であるので,語りながら歌唱しつつ絵解きしたことが推察される。インドでは現在もベンガル地方などでポトゥアといわれる絵解説教師がいるが,日本ではその伝統・古態を維持することが困難になっている。現在残されているものとしては,富山県井波町瑞泉寺の「聖徳太子絵伝」,長野市往生寺の「刈萱(かるかや)親子御絵伝」,愛知県美浜町野間大坊の「義朝公御最期之絵図」,三木市法界寺の「三木合戦図」,和歌山県川辺町道成寺の「道成寺縁起」,京都府来迎寺の「六道絵」などの絵解きが残っている。