●越中売薬 えっちゅうばいやく
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富山売薬ともいう。江戸期以降越中富山城下町を基盤とし,同国射水郡や新川郡の町々からも出て全国へ行商した売薬で,今日でも重要な地場産業としてつづいている。富山城下町から出かけた富山売薬は,富山藩随一の国産として,藩財政,とくに藩の領域経済のバランスの維持に重要であったのみでなく,行商という営業形態をとったがゆえに,全国的に知名度が高かった。【越中売薬の起源】越中売薬の中枢をなす富山売薬の起源については,富山の売薬業者が伝えた各種の由緒書や,これを集大成し明治中期に編纂された『富山反魂丹旧記』などを根拠として,備前国の医師萬代浄閑の創製で,富山2代藩主前田正甫が元禄年間(1688〜1704)に諸国へ売り広める契機をつくったと考えられていた。しかしこれは,富山売薬の目玉商品であった「反魂丹」の起源を説くもので,越中の売薬は,反魂丹以前に越中立山の御師たちが諸国壇那場を回って立山信仰宣布のかたわら熊胆(くまのい)・黄蓮(おうれん)などを販売した「立山売薬」や,越中婦負郡の修験者たちが始めた「修験売薬」に起源をもつと考えられる。すなわち越中売薬は富山反魂丹の創製以前,おそらく中世に起源をもつものである。
【売薬商人の組織と活動】富山城下町を基盤とする富山売薬は,富山のほか富山藩領の八尾・西岩瀬・四方などを含めて幕末期に2,000人をこえる売薬人が他領他国へ行商に出かけたが,富山藩は反魂丹役所を設けてこれを指導統制した。売薬人たちは北は奥州・出羽から南は薩摩・大隅まで全国に行商したが,彼らは共同の利益擁護のために組および向寄(むかいより)という組織をもっていた。向寄は行商先の藩を単位とするもので,旅先藩から営業免許を受ける必要から,また組は全国的な管理や経営上の必要から近接する行商圏を結合してつくられた。組の数は江戸中期で北は南部組から南は九州組まで20組あったが,富山藩は組々の脚数すなわち株数を原則的に定め,各組に3人の当番年行司を置いて統制にあたらせた。組は事実上株仲間として機能した。藩に設けられた反魂丹役所は,各組の連係の拠点であるとともに,運上金・冥加金・御礼金・徴罰金など上納金の事務を執行する機関でもあり,彼らの会所としての機能ももっていた。各組は成文化された「…組示談帳」と称する仲間規約をもっていた。「示談帳」には新懸・値引・重置の禁止や,旅先における仲間の親睦や相互扶助,不行跡の禁止など,仲間相互の利益確保のための自主規制を規定した。次に越中の加賀藩領からは,富山藩領の東の新川郡と西の射水郡高岡町から売薬人が出た。新川郡は東岩瀬・水橋・滑川,また射水郡は放生津・小杉などの町々が多く,その数は富山藩領には及ばないが,幕末期で1,300人を超えていた。行商先も全国に及び,各地で富山藩領売薬と競争し,また相提携した。売薬商人は地元の製薬業者である薬種屋から薬を仕入れ,雇人である連人(つれにん)を伴い,得意先名簿である懸場帳をもって旅に出た。旅先では得意先に一定量の薬を預け置き,翌年の行商の際に使用薬代を精算する配置制度をとった。懸場帳は行商先の権利と実績を保証するもので,売買・質入れの対象となる財産価値をもった。
【旅先藩との交渉機関】越中売薬の全国にわたる行商圏のうち,関東・畿内など非領国的性格の地域は経済的にはおおむね開放的で商品経済の活動が盛んであったので,越中売薬は容易に進出できたが,九州・東北・奥中国などは領国支配が強いために,売薬商人は支配権力と交渉しこれと結んで商圏と利益を確保せねばならなかった。このために,旅先藩の政治的有力者や藩の機関とかかわりの深い有力経済人を,仲間組の旅先における仲介機関として育成し,これを通じて藩との交渉を有利に導いた。文化期における熊本藩の財津九十郎・財津熊三郎,嘉永期における薩摩藩鹿児島の製薬係で町年寄の木村与兵衛,安政期仙台藩との交渉にあたった仙台の法運寺などがそれである。
【越中売薬の経済的貢献】越中売薬は近世における越中の国産として,領民の生活の安定と,領外を商圏とするがゆえに領域経済のバランス維持に果たす役割が大きかった。その上売薬業者の富山藩に納める諸役金などの上納金が,たとえば安政4年には3,200両余にのぼったのみでなく,幕末期絶望的となった富山藩の赤字財政の一部を「御役金繰上上納」「再上納」「不時取替金」などの名目で売薬業者に転嫁することによって危機を切りぬけることもみられた。
〔参考文献〕「通史編近世下」『富山県史』1982,富山県
『日本産業史大系』5 1960,東京大学出版会
『日本の郷土産業』3 1975,新人物往来社
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