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●エチオピア戦争 エチオピアせんそう

アフリカ エチオピア連邦民主共和国 AD 

 エチオピア支配をめざした2度にわたるイタリアの侵略戦争。

【第1次】1889年に皇帝となったエチオピア皇帝メネリクは国内の混乱を治め,イタリアとウッチャリ協定を結んだ。イタリア側はこの協定をエチオピアに対する保護権の獲得と理解したが,エチオピア側は自国の独立を保障するものと考え,この両者のくい違いが紛争へと発展した。1893年2月,皇帝メネリクウッチャリ協定を破棄してイタリアの狙いをしりぞけた。1893年末にイタリアの首相に返り咲いたクリスピは強硬政策をとり,エリトリア植民地を拠点にエチオピア領への軍事侵入をはかった。エチオピア侵略は,クリスピにとって,強国としてのイタリアのイメージを内外に誇示する機会と考えられた。しかし,この侵略はイタリア国民には不人気でブルジョア階層の同意を欠いていた。わずかにこの侵略を支持したのは,軍事需要や軍事輸送から生じる利益に期待をかけた鉄鋼・造船・海運業であった。1895年から96年にかけて戦われた第1次エチオピア戦争で,イタリア軍は,1896年3月1日,エチオピアの頑強な抵抗にあい,アドゥワ近くのアッパ=ガリマで大敗を喫して侵略の野望をくだかれた。この戦いによるイタリア側の戦死者は,イタリア人5,000人,エリトリアの現地兵1,000人と数えられた。この敗北で辞職に追いこまれたクリスピ内閣の後を継いだディ=ルディニィは,1896年10月26日,アディス=アベバ和平条約を結んで,エチオピアの主権尊重を約した。

【第2次】1934年末に生じたエチオピアとイタリア領ソマリーランドのあいだの国境紛争において,イタリアはエチオピアに巨額の賠償金を要求した。エチオピアはこれを国際連盟に提訴し,その結果調停委員会が発足した。1935年,調停委員会は両国はいずれも非難すべき点はないという結論を出した。そこで,イタリアはエチオピア侵略の準備を開始し,エチオピアと国境を接するエリトリアとソマリーランドに大量の軍隊を派遣した。1935年10月3日,デ=ボーノを総司令官とするイタリア軍は,宣戦布告することなしに,エリトリアとソマリーランドの両国境を越えてエチオピアに侵入し,その後北部エチオピアのアドワとメケレを占領した。同年11月,デ=ボーノに代わってパドリオが総司今官となり,さらに進撃をつづけて,1936年3月31日,アシェンゲン湖の近くでエチオピア軍を破った。軍事力で圧倒的優位に立つイタリア軍は,同年5月5日,アディス=アベバを占領し,一方的に戦争終結を宣言した。エチオピア皇帝ハイレ=セラシェはジプーティからエルサレム,そしてジュネーヴへと逃れた。ジュネーヴで国際連盟総会に出席したハイレ=セラシェは,イタリアのエチオピア侵略を訴えた。国際連盟は侵略国イタリアを非難して経済制裁を加える決定をしたが,その措置は具体性を欠き効果は薄かった。1936年5月9日,イタリアはエチオピア・エリトリア・イタリア領ソマリーランドを合併,イタリア領東部アフリカと命名し,イタリア国王ヴィットーリオ=テマヌエーレ3世が皇帝に即位した。このエチオピア侵略は,イタリアでは「産業の再編と国民の掌握を背景」に実行され,「ファシズム体制の戦争への傾斜を決定的にした」。エチオピアでは,農産業の開発に重点を置いた大規模な公共事業が行われたが,イタリア支配に抵抗する運動も絶えることがなかった。亡命地イギリスからマーダンのハルツームに移ったハイレ=セラシェは抵抗運動と接触をはかっていた。第二次世界大戦中,イタリア領東部アフリカに対するイギリス軍の攻撃の前にイタリア軍は敗北をつづけ,1941年1月,イギリス軍によってエチオピアは解放された。同年5月5日,皇帝ハイレ=セラシェアディス=アベバに戻った。1947年2月,パリで調印された平和条約によって,イタリアはエチオピアに対する一切の要求を放棄し,1950年の国際連合総会でエチオピア皇帝の主権のもとにエリトリアをエチオピアと連邦を構成する自治単位としておくことを決定した。

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