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●穢多 えた

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 中世においては,屠者・河原者・キヨメなどの異称として用いられ,主として寺社の掃除役や雑役に従事したり,死牛馬の処理に携わった者をさす。中世には職業呼称としての意味あいが強かったが,近世身分制度が確立するにつれ,しだいに身分呼称として用いられるようになった。中世においても,広範な賤民のなかに位置づけられる呼称ではあったが,河原者・非人などに比べて,史料が乏しく,鎌倉末期の弘安年間(1278〜88)に編さんされた百科辞典『塵袋』を初見として,慶長年間(1596〜1615)までに30余例が残されているのみであり,その多くは,その職業の紹介と語源が大半を占める。

【「えた」の語源】「えた」の音に「穢れ多い」という意味の漢字をあてるにいたったのは,『塵袋』が成立して間もない13世紀と考えられるが,あくまであて字であり,おそらく僧侶の手になるもので,それゆえ京都を中心に用いられたのである。当時の知識階級では,「えた」の音を「餌取り」の転化とみる見方が一般的で,いわゆる「えとり語源説」として,その後の学者にも伝えられ,近代以降においても,喜田貞吉が一時,この「えとり説」を採っていた。これは,律令制の主鷹司に属する鷹戸に,鷹の餌を集める職に従事する人々がおり,これを「餌取り」といったことに由来するとするもので,これがのちになまって「えた」となったとする説である。近年,盛田嘉徳氏が,音韻上の問題から「えて」(穢手)の転化したものとの説を提唱したことがあったが,結論は出ていない。その他,別説として,燕の太子丹に由来するものとする「燕丹説」などが民間に流布されたこともある。こうした別解も,近世被差別部落の呼称として,この「えた」の称が用いられるようになると,異民族起源説の根拠が成立,被差別部落に対する「偏見」の一要因を形成する。

【近世身分制】近世身分制度の確立に伴い,従来流動的であった身分や職業は固定化される。その基本的な身分は「士農工商」であり,のちの被差別部落も,原則的には士農工商と重複してくる。ただ,検地帳に登録されている農民に「かわた」の肩書きをもつ者があることや,都市の職人町に「皮屋町」「皮田町」があることなどから,それらが被差別部落につながっていくと考えられる。とくに,近世初頭,城下町の治安対策のため,刑吏役などを課せられた「役人村」は,その典型ともいえる。ただし,近世初期には,これらを「かわた」と称しており,元禄ごろから権力側の史料に「えた」が登場することになる。もちろん地域差があり,熊本藩では慶長年間に「えった」の呼称がみられ,また,広島藩では近世を通じて「革田」の呼称が用いられた。しかし,これらは例外に属すると考えられ,大体,元禄を前後する時期に,「かわた」(皮多・皮太・革田・革多)という職業的呼称から,卑賎観に満ちた「穢多」の呼称へと変えられていくわけである。

【明治以降】1871年(明治4)8月28日の太政官布告により,非人その他の雑種賎民とともに,「えた」の称は法制的に廃止された。この太政官布告を,大正中期ごろから「解放令」と称するようになるが,被差別部落の生活は,この「解放令」後,むしろ悪化の一途をたどる。たとえば,近世において,被差別部落の独自の産業であった皮革業は,その集散地では大きな利潤となった。しかし,「解放令」の「身分職業共平民同様」は,華族・士族らの皮革業進出を招来し,権力と膨大な資本を背景とした皮革生産は,部落の皮革生産を危機に陥らせる。その典型が,1874年(明治7),弾直樹の皮革会社倒産である。その後,松方デフレの影響もあって,部落の経済的危機は深まり,1900年前後,部落内のエリートたちによる部落改善運動を生み出す。これは,内務省の治安対策としての融和運動とも結びつくが,多くの部落大衆の支持するところとはならず,1922年(大正11)3月3日の全国水平社の結成により,ようやく大衆運動としての部落解放運動が開始されることになる。この運動は,1933年の被差別部落住民の結婚問題に関する高松地方裁判所の差別判決取消闘争に完全勝利をおさめるにいたる。しかしおりからの戦時体制下では,おもてだった活動もなく運動は停滞したが,日本の敗戦とともに,全国水平社の運動を継承する部落解放全国委員会が,1946年に発足した。1955年には,全国委員会は部落解放同盟と改称し,1969年「同和対策事業特別措置法」などの成果をおさめていった。