50音順    検 索

●蝦夷地 えぞち

アジア 日本 AD 

 近世の北海道島のうち渡島半島西南部の和人地(松前・日本地・人間地)を除いた全域と,樺太・千島のアイヌ民族居住地域をさした。それは“異域”すなわち日本国家の領域外を意味していた。中世には津軽海峡以北のアイヌ居住地を“夷狄島”“夷嶋”“蝦夷カ千島”など漠然と呼んでいた。蝦夷地の概念は,北海道島へ渡った日本人(和人)が近世初頭にいたり,同島における活動領域を区画したことで生まれる。渡島半島に点在していた和人諸館を統一した蛎崎氏は,1593年(文禄2)慶広の代に,豊臣秀吉より暇夷島主としての朱印状を受け,奥羽北部に勢力をもつ安東氏の代官としての地位を脱し,アイヌ交易独占権を得ることになる。のち氏を蛎崎から松前に改め江戸幕府下の一藩となった。和人地と蝦夷地の区画は,和人とアイヌの混乱を避けることより,松前藩の経済的理由により設けられた。その境界を西は熊石・東は汐首岬とし,熊石以北を西蝦夷地(上蝦夷地)・汐首岬以北を東蝦夷地(下蝦夷地)に分けた。また,松前に近い地方を口蝦夷,遠い地方を奥蝦夷と呼んだ。熊石と亀田(1802年より山越内)には番所を置き,和人・アイヌの自由な往来を取り締まり,和人の蝦夷地永住を禁じ,和人地に元より住んでいたアイヌにも蝦夷地へ行くことを制限した。中世には東北地方まで交易に赴いていたアイヌは,蝦夷地内に活動を限定されることになった。

【松前藩政下の経済活動】松前氏は唯一の“無高大名”つまり米の石高をもたない大名であり,初期において藩の経済は,アイヌとの交易を基礎として鷹や砂金などの収入に依存した。蝦夷地内にアイヌの人々と交易する商場を設け,土地の代わりにこの商場を藩士に知行として与えた。これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)と呼んでいる。その後,藩主の権限に属した鮭漁・鱒漁・伐木なども,藩士はとくに許しを得て運上金(うんじょうきん)を納めた。交易品はアイヌの求める酒・米・煙草・鍋・漆器・古着などと,蝦夷地産物の熊や鹿の皮・鮭や昆布などの海産物とを交換した。交易はしだいに複雑となり,資本的・技術的にも場所経営が困難となったため,近江商人を初めとする他国商人が経営を請負い運上金を知行主に納める形態に変わっていく。享保期(1716〜36)にはほとんどすべての場所が請負人の手に握られた。場所請負人は,大規模な漁場経営を導入して和人の活動範囲を拡大し,反面アイヌを漁場労働者として隷属させた。場所の開発も徐々に奥地まですすみ,国後場所・樺太場所,まもなく紋別・斜里場所も開設された。しかし経済活動の進展は,1643年(寛永20)瀬棚の酋長へナウケの蜂起,1669年(寛文9)静内のシャクシャインの蜂起,1789年(寛政1)国後・目梨の蜂起など,アイヌ勢力の激しい抵抗を招いた。

【ロシアの進出と幕府の直轄】千島列島におげるロシア勢力の進出により,1799年(寛政11)幕府は東蝦夷地を仮上知,さらに西蝦夷奥地にもロシア人が渡来し,松前藩が辺境を守備する力がないことが明らかとなり,1807年(文化4)全蝦夷地を直轄とした。1809年(文化6)幕府は樺太を“北蝦夷地”と呼び,明確に蝦夷地として位置づけた。樺太が松田伝十郎・間宮林蔵の調査により島であることがわかったのもこのころである。1821年(文政4)までの幕府直轄統治により,道路の開削・沿岸航路の開拓など蝦夷地開発は飛躍的にすすみ,アイヌの同化政策も強行された。その後,ロシア兵による樺太久春古丹の占拠あるいは箱館を開港したこともあり,1855年(安政2)幕府は再び全蝦夷地を直轄するが,樺太をめぐる国境画定は長く日露間の係争問題となった。再直轄後幕府は仙台・秋田・盛岡・弘前の各藩に分担守備を命じ,和人の蝦夷地移住を奨励し,永住権をも許した。また箱館奉行は,松浦武四郎に内陸道路予定線と山川地理取調を命じ,これにより初めて蝦夷地内陸の事情が明らかとなった。1869年(明治2)新政府は開拓使を設置し,蝦夷地を北海道と改めた。

〔参考文献〕北海道編『新北海道史』2,1970,新北海道史印刷出版共同企業体

高倉新一郎『新版アイヌ政策史』1971,三一書房