●蝦夷 えぞ
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日本史上の東北辺境の少数異族集団。はじめはエミシ・エビスといい,エゾという言い方は,その一定の発展段階ののちに,古代末期近く,平安中期以降に成立。中世・近世は,エゾの名で呼ばれるために,一般に全期を通じて,エゾの名で呼ばれる。しかし,古代蝦夷を中世・近世蝦夷とでは,その性格を大きく異にするため,古代のエミシ・エビスをもエゾというときには,正確には古代エゾという呼びかたがよい。【毛人とエミシ】エミシは初め「勇者」の意味で用いられ,一般に男性の美称として広く行われた。しかし,人名としてのエミシは,必ず「毛人」と書かれている。蘇我エミシだけ「蝦夷」と書かれているが,これは,『日本書紀』の編修者が,大化改新の反逆者という性格のエミシに対する筆誅の心から,そうしたものである。だからこのことばは,はじめから東国の辺境の民について用いられたのでないし,したがって侮蔑や憎悪の気持をこめて使われたものでもない。
【夷とひな】エミシは第2段階で「東国の勇者」について,おもに用いられるようになる。このことばに夷の字があてられ,「ひな」とよまれながらエミシをもさすようになるのは,その意味からである。「ひな」は「辺鄙」の意味で,東国を「あずま」というのも,この「辺鄙」の義であった。すなわち「東のひなの勇者」の意味になって,エミシにはっきり,賤称・蔑称の性格が出てくる。
【あらぶるもの・まつろわぬひと】エミシを「東国の兇暴な悪者たち」の意味に用いる用法は,大和朝廷の東国経営がはっきりしてくる段階で,明確な形をとる。『古事記』『日本書紀』の伝承で,その東国経営の始まりとされるのが,崇神天皇のときの,四道将軍派遣,景行天皇のときの日本武尊の東征になるのであるが,その征討の対象になったものたちが「あらぶるものたち」(暴逆な者たち)・「まつろわぬひとたち」(朝廷に抵抗する人たち)と呼ばれた人たちであった。記紀では,この人たちのことを「蝦夷」と呼びかえているから,エミシの実体が「あらぶること」「まつろわぬこと」にあったことがわかる。これにより,エミシとかエゾとか呼ばれた蝦夷の観念が,もともとは,政治的・文化的に朝廷や国家といきかたを異にして,その外に立っている人たちに対する侮蔑・憎悪から生じたもので,直接に人種の違いにもとづくものでないことがわかる。ただ,この政治的・文化的な蛮民観念が,だんだんに北辺に限定されるようになって,人種的異民族観念に改まっていくことになる。
【日高見国と蝦夷】日本書紀の景行天皇27年および40年条は,いわゆる蝦夷観念を成立せしめるうえで,重要な意味をもったものである。ここでは,「東夷」すなわち東国の一般エミシと区別された,固有の意味のエミシのことを,とくに「蝦夷」の字で書き表すこと,その固有エミシの世界を「日高見国」ということ,この国は広大で肥沃であるが,まことに強暴・未開野蛮であることが,口をきわめて強調されている。このような人たちを「ことむけやわし」,その領土を経営するのが,王化(国家政治)の目的であるとされている。景行紀の記事は,大化改新ごろのエゾ事情を反映するものと考えられているから,これは,大和国家の時代から,律令国家の時代に移るころになって,強大なエゾとの全面対決に入る時の問題の実態を明らかにしたものといえる。「蝦夷」という文字がはじめて用いられたのは,大化のころと考えられている。その人たちの国がとくに日高見国と呼ばれているのは,その「蝦夷の国」を「一つの内なる外国」ととらえていたことを示す。「道の奥」陸奥国ということばは,この日高見国を,経営する政府側の立場から,どのくらい奥深いかわからない無限の未開の地という意味のものにとらえ直したものである。
【エゾ経営】エゾ経営の歴史は,城柵と柵戸(きのヘ)の歴史である。城柵の歴史はたたかいの歴史であり,柵戸の歴史は開拓の歴史である。大化の改新の直後の647年(大化3)越国(こしのくに)の後の越後国に渟足柵(ぬたりさく)を,翌648年には同じ越国に磐舟柵を築き,武装植民たる柵戸を諸国から移住せしめ,「かつ戦いかつ開拓する」体制をとるのが,歴史時代のエゾ経営のはじまりである。出羽国では,最上川河口に出羽柵を置き,やがてこれを国府に改組,出羽柵は秋田にすすめ,秋田城・雄勝城が新たに設けられた。平安初期,秋田城は出羽柵と合体,北羽経営の基地となった。10世紀初期で確認されているところでは,出羽国の経営は11郡58郷に達し,八郎潟付近を北の限界とした。878年(元慶2)秋田城下に降伏エゾ(俘囚)の大乱があり,津軽から渡島(北海道)方面のエゾまで呼応する重大事となったが,出羽権守藤原保則らの力でようやく鎮静した。陸奥国では,今日の福島県方面は,すでに大化改新ごろ「道奥国」という制度上の国を建てるところまで開拓がすすみ,一時石城・石背(いわき・いわしろ)の支国を分置したこともある。奈良時代のはじめ,多賀城を築き,国府・鎮守府・按察使(あぜち)府をあわせ置いて行政・軍政の大基地とし,色麻(しかま)・玉造・新田・牡鹿(おしか)・桃生(ものう)・伊沼などの諸城をその北に築き,伊沼城などには最高9,000人からの柵戸を配して,大規模な経営をすすめた。794年(延暦13)・795年(延暦20)の胆沢(岩手県南部)のエゾ経営戦には最高10万の大軍が動員され,エゾとの戦いは,このころでほぼ終了,胆沢城を築き,鎮守府をここに移し,北奥統治の基地とした。10世紀初めまでに,40郡・188郷の開拓が記録されている。
【エゾと馬】征服する側の政府側の記録でも,エゾが単なる未開野蛮の人たちでなく,彼ら固有の産業・経済様式をもっていたことを認めている。それが大和系文化と異なった生活文化のもととなり,巨大な抵抗の源泉になっていたことを明かしている。それは,馬の産業およびこれを踏まえた戦闘様式である。718年(養老2)エゾが1万1,000頭の馬を献上したと記録されているが,これはエゾの朝貢貿易を示すものである。平安初期には,エゾとの戦いに必要な政府軍の軍馬は,実はエゾ馬の買い上げによるものであること,エゾ側の馬を買い取るために,政府側官憲は,その鉄製武具を農耕具に改造して密輸していたこと,エゾはこの馬に乗って戦場を馳駆する騎馬民族であって,戦場の戦闘では,政府軍の10をもってしても,エゾの1にかなわないとされている。エゾが独自の産業をもち,それによって彼らの抵抗を組織するとともに,彼らの開明への道も,これをテコにすすめられていたことがわかる。東北の馬のおこりは,このエゾ馬にあった。
【俘囚の問題】吉代のエゾ経営は征服戦争としては,平安初期9世紀のうちに,ほぼ終了する。これからのちのエゾ問題は,二つの方向をとる。一つは,国家がその経営をほとんど放棄した形の「外のエゾ」がどうなったか,という問題である。もう一つは,征服によって,捕虜になったり降伏したりしたエゾがどうなったか,という「内なるエゾ」の問題である。この「内なるエゾ」を「俘囚」(ふしゅう)という。この人たちは,一方には集団をなして内国に移住せしめられ,エゾ問題を全国に拡大した。俘囚移配の国は全国35カ国にも達した。彼らは「俘因郷」を形成,長くエゾ村の伝統を伝えた。東北の現地では,鎮守府胆沢城下の奥6郡,出羽雄勝城下の山北(せんぽく)3郡などが,その俘囚集団の自治区のようになって,俘因長安倍氏・清原氏のもとに,前九年・後三年の役をおこす遠因をなす。平泉藤原氏は「最後の奥羽俘囚長」とみなされていた。
【エゾとアイヌ】いわゆる「外のエゾ」が,中世・近世のアイヌになると考えられる。文献によれば,「エゾ」という呼称がはっきりするのは平安後期以降,場所としても本州最北端から北海道の蝦夷についておこったものである。エゾがアイヌ語エンジュ(人)の転化とされることからわかるように,エミシは北日本において,明瞭にアイヌを確認,これを新エミシとみなし,アイヌエミシ,つまりエゾと呼んだのである。
〔参考文献〕高橋富雄『蝦夷』1963,吉川弘文館
古代史談話会『蝦夷』1956,朝倉書店
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