●エジプト-トルコ戦争 エジプト-トルコせんそう
アフリカ エジプト・アラブ共和国 AD1832
(1832〜33,1839〜41)エジプトのムハンマド=アリー(メフメト=アリー1779〜1849)によるオスマン=トルコとの戦争。【ナポレオンのエジプト遠征】エジプトはオスマン=トルコのセリム1世(在位1512〜20)によって,1517年に征服され,以来,トルコ太守が統治し,そのもとでエジプトのマムルーク朝が地方行政を担当することになり,エジプト人は二重支配に苦しんだ。1769年,アリー=ベイが一時,エジプトの独立を宣言したが失敗した。フランス革命のあと,1798年にナポレオンはイギリスとインドのあいだを断つためにエジプトに遠征して,これを支配した。ナポレオンの支配は1801年に,イギリスによって駆逐されたので,短期間であったが,ロゼッタ石の発見などによる古代エジプト文明の再発見がみられたうえに,革命的な自由思想を残して,エジプト人の民族的自覚を促進させた。この空気の中で,ムハンマド=アリーの活躍が始まった。彼はマケドニアの出身で,ナポレオン軍と戦う不正規軍の下級将校であったが,しだいに頭角を現し,戦後の混乱を収拾して,1805年太守に任ぜられ,1807年にはイギリス軍を破り,旧マムルーク派を抑えて,1811年にはエジプト統一に成功した。トルコは彼の勢力拡大をおそれ,アラビア遠征をすすめると,これに成功し,国内の改革も進め,ヨーロッパ風の近代的陸・海軍隊の育成にも当たった。
【ギリシア独立戦争】ギリシアがトルコからの独立戦争をおこすと,ムハンマド=アリーはトルコのスルタンの要求に応じて,子供のイブラヒム=パシャ(1789〜1848)に指揮させた軍隊を1825年2月から派遣し,ミソロギの戦いをはじめとして,1827年までトルコ軍を撃破した。海軍はナヴァリノの海戦で全滅したが,戦争が終わると,アリーは功によって,スルタンからキュプロス・クレタ(アリーが1822〜24年に占領)両島の太守に任ぜられた。しかし彼はこれに満足せず,全シリアを要求し,スルタンがこれを拒否すると,1831年からシリアに軍を進めた。
【キュタヒアの和】アクレ太守と争ったアリーは,イブラヒムの軍を向け,イブラヒムはアクレを1832年5月27日,ダマスクスを6月15日,アレッポを7月16日に占領し,7月29日にはアレクサンドリア近郊でトルコ軍を破り,アナトリアに進撃を開始した。トルコはイギリスに援助を求めたが,ベルギー独立問題に追われていたパーマストンは動かず,12月21日にはコニアの戦いで,トルコ軍が大敗した。ロシアはムラヴィエフを特使として,エジプト・トルコ間を調停しはじめ,軍隊をボスフォラスに派遣した。イギリス・フランス・オーストリアはロシアの干渉をおそれて,和解工作に入った。この結果,1832年4月8日,キュタヒアの和が成立した。この結果,アリーはトルコに貢金を納める代わりに,エジプトでの世襲スルタンとシリアの終身支配権を認められた。
【ムハンマド=アリー朝の成立】ロシアとのあいだにウンキアル=スケレッシ条約を結び,ミュンヘングレーツ条約でオーストリアの保障もとりつけたトルコは,1839年4月,ユーフラテス川を渡ってシリアに進出したが,6月24日にはネシブの戦いでイブラヒムの軍に完敗した。列強は両者に干渉を加えたが,英・露・墺・普4国がエジプトの譲歩を求めたのに対し,フランスのティエールはエジプトに味方し,国際関係は緊張した。平和政策をとったフランス王ルイ=フィリップはティエールを辞職させて,ギゾーを首相とし,ギゾーが調協主義をとることで,危機が回避された。列強は7月15日,ロンドン条約を結び,この線にそって,11月27日にはエジプト・トルコ間のアレクサンドリア協定がなり,アレクサンドリアの封鎖を解き,アリーはシリアを放棄したが,エジプトにはムハンマド=アリー朝が認められ,1841年2月13日,トルコがこれを認めたことで,正式に成立した。