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●エジプト革命 エジプトかくめい

アフリカ エジプト・アラブ共和国 AD1919  【1919年革命】第一次世界大戦が始まった1914年の12月、エジプトをオスマン=トルコ帝国から分離し、イギリスの保護下に置くことが宣言された。ムハンマド=アリー王朝は存続したが、実権はイギリスが握っていた。大戦後、サアド=ザグルールら民族主義者たちは、イギリスに対し、エジプトの完全独立を要求したが、これが拒否されると、ワフド(ヴェルサイユ会議へのエジプト代表団)派遣運動を組織した。イギリスは、ザグルールらの逮捕・流刑によってこれに対処しようとしたが、かえって各地で激しい反英運動を招く結果となった。エジプトのあらゆる階層の人々が参加したこの反英運動は、1919年を頂点として、全国的なひろがりをみせた。統治機能を完全に麻痺させられたイギリスは、武力の強化とザグルールの釈放などの譲歩とによって、どうにかこの危機を切り抜けたものの、強硬策による統治が不可能なことを悟り、1922年に保護権を放棄して、エジプトの独立を認めた。しかし、この独立には4項目の留保条件がつけられており、エジプトが名実ともに独立を勝ち取るのは、1952年の自由将校団による革命を待たねばならなかった。

【独立後のエジプト】エジプトは独立後、ファード1世を国王とする立憲君主国となったが、イギリスはいぜん背後勢力として隠然たる力を保持していた。1923年の総選挙でワフド党は圧勝し、翌年ザグルール内閣が誕生したが、このときすでにエジプト政界には混乱が生じはじめており、民衆のあいだにも革命のときのような熱気はもはやみられなかった。1930年代に入ると、第二次世界大戦勃発の様相が深まったが、エジプトは、イタリアのエチオピア侵攻をきっかけとして、1936年イギリスと同盟条約を締結した。これによってエジプトは、イギリス軍のスエズ運河地帯駐留およびスーダン管理権問題の留保という条件つきながらも、イギリスに完全な主権を承認させた。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発すると、エジプトがドイツ・イタリアに接近することを恐れたイギリスは、親英内閣を成立させるなどして露骨な内政干渉を行う。こうしてエジプトは、完全な主権を得たとはいうものの、イギリスとの協力体制をますます深めていった。

1952年革命大恐慌の影響をまともに受けていたエジプトでは、第二次世界大戦の勃発とともに経済的不安はさらに増大し、民衆の不満は、反政府・反英運動の形で高まっていった。大戦後、1950年の総選挙の結果誕生したナハス内閣は、イギリスに対し、イギリスエジプト同盟条約の破棄、イギリス軍の即時完全撤退、スーダン共同統治協定の廃棄などを要求したが、イギリスがこれを拒否すると、反英運動は全土で激化の一途をたどり、エジプトは内戦状態に陥った。パレスチナ戦争(イスラエル独立戦争)敗北後の1947年に、ナセルサダトらを中心に結成された自由将校団は、このような状況のなかで、1952年7月23日クーデタを決行し、無血革命に成功した。王制は翌年廃止された。自由将校団は、ナギブを委員長とした革命委員会を設置し、さまざまな改革を断行したが、やがてナギブナセルの対立が表面化し、1954年11月ナギブは、ムスリム同胞団の陰謀に加担したとされて、すべての公職を追われた。実権を握ったナセルは、1956年6月イギリス軍のスエズ運河地帯からの完全撤退を完了させ、さらに同年7月にはスエズ運河の国有化を宣言した。突然の国有化にあわてたイギリスは、フランス・イスラエルとはかり、エジプトに侵攻したが、国際世論の非難をあびて撤退を余儀なくされた。ナセルは、このスエズ運河の国有化を手はじめに、外国企業や国内の主要産業の国有化を推し進め、こうしてエジプトは、ナセル政権のもとで社会主義への道を歩みはじめた。

〔参考文献〕G.A.ナセル、西野照太郎訳『革命の哲学』1956、平凡社

アンワル=エル=サダト、井上幸治訳『ナイルの叛乱−エジプト革命の記録−』1958、岩波書店

アンワル=エル=サダト、朝日新聞外報部訳『サダト自伝 エジプトの夜明けを』1978、朝日イブニングニュース社


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