●エジプト
アフリカ エジプト・アラブ共和国 AD
エジプト・アラブ共和国 Arab Republic of EGYpt アフリカ大陸の北東部に位畳するエジプトを中心としたイスラーム・アラブ国家。正式国名はエジプト=アラブ共和国。エジプトという国名は古代ギリシア語名「アイギュプトス」AiGYptosに由来し,エジプトは自国を「ミスル」というアラビア語で呼んでいる。首都はカイロ。国土は南北1,073km,東西1,226kmのほとんど正方形に近い形をしていて,北は地中海,南はスーダン,西はリビア,東は紅海・アカバ湾・イスラエルによって国境を画されている。面積は約100万平方kmで,アフリカ大陸の総面積の約30分の1を占め,日本のほぼ3倍にあたる。エジプトを南北に貫流するナイル川の河谷と,カイロのあたりから形成される河口部のデルタ地帯を除けば,国土の97%近くが砂漠である。気候は,北部の地中海に臨む海岸地方は地中海性気候で,アレクサンドリアでは最高気温32℃,年間降水量は200mmに達する。しかし全体としては乾燥した亜熱帯性気候を示し,南へ行くほど気温は高く,雨量は少なくなり,カイロでは最高気温40〜50℃,年間降水量はわずか30mmほどである。人口は約5,785万人(1996)で,人口密度は1平方kmあたり約58人であるが,ナイル川流域に人口が集中しているため,エジプトで人の住んでいる地域は,世界でも指折りの人口過密地域となっている。総人口の92%をアラブ系エジプト人が占め,残りの8%はアルメニア系・ギリシア系・トルコ系などの人々である。宗教は憲法によってイスラーム教が国教とされ,国民の90%以上がスンニー派イスラーム教を信仰し,ほかにコプト教・ギリシア正教・アルメニア正教・ローマ=カトリック教などのキリスト教徒も存在する。公用語はアラビア語であるが,都市では英語・フランス語も使われ,またコプト教徒のあいだにはハム語系のファラオ時代の言語が今も残っている。【古代エジプト文明の成立】人類最古の文明の一つはエジプトで発生した。それはまさに〈ナイルの賜物〉(ヘロドトス)によるものであった。ナイル流域にはすでに旧石器時代中期に人類が生活していたが,その後上エジプトのセビル文化などに代表される旧石器時代後期〜中石器時代の文化をへて,前5000年ころ農耕・牧畜文化が始まった。エジプトにおける新石器時代の文化は,上エジプトではターサ文化(前5千年紀),バダーリ文化(前4千年紀前半),アムラー文化(ナカダI文化 前3800〜前3600ごろ),ゲルゼー文化(ナカダII 文化前3600〜前3100ごろ)の4文化期,下エジプトではファイユームA文化(前5千年紀後半),メリムデ文化(前4千年紀前半),マアディ文化などの文化期に分けられている。この間,ナイル川の灌漑によって生産力が増大し,また西アジアや東地中海域との交易も盛んになり,ナイル流域に散在していた村落は町に発展,多数の小王国が成立した。国家形成への過程をたどるこの時代は先王朝時代(前3600〜前3100ごろ)と呼ばれ,上エジプトでゲルゼー文化が発達した時期にあたるが,この文化期末までに,分立していた多数の小王国はしだいに統合され,上エジプト王国と下エジプト王国の南北に対立する2王国に発展,前3100年ごろ,ティニスに都を置く上エジプト王国がエジプトの統一に成功した。こうして王朝時代が始まり,同時に文字(ヒエログリフ)も使用されるようになって,古代エジプト文明が成立した。
【王朝時代】上エジプト王による上・下両エジプトの統一(第1王朝の成立)とともに,エジプトは歴史時代に入った。以後,前332年にアレクサンドロス大王によって征服されるに至るまでの時代は,王朝時代もしくはファラオ時代と呼ばれ,前3世紀のエジプト人神官マネトが著した『エジプト史』にもとづいて31の王朝に区分され,普通7期にまとめられている。
【初期王朝時代】(第1〜第2王朝,前3100〜前2686ごろ)エジプト統一の事業を成し遂け,エジプトにおける最初の統一王朝(第1王朝)を開いたのは,伝承ではメネス王,考古学的遺跡・遺物の上からはナルメル王または次王アハとされている。以後約400年間は初期王朝時代と呼ばれ,諸王は鷹神ホルス(第1・第2王朝の出身地ティニス地方の守護神)の化神として国王(ファラオ)の権力の確立に努め,中央集権国家体制を整えていった。王都は上・下エジプトの境にあたるメンフィスに置かれ,王墓は上エジプトのアビドスと,メンフィスの近くのサッカラに営まれた。この時代の遺跡としては,ほかに有名な「ナルメル王のパレット」が出土した上エジプトのヒエラコンポリスが知られている。
【古王国時代】(第3〜第6王朝,前2686〜前2181ごろ)初期王朝時代の統一と建設の事業は第3王朝に至って完成され,ジェセル王の治世にファラオを頂点とする中央集権国家体制が確立,王朝時代最初の繁栄期である古王国時代が開かれた。この時代は「ピラミッド時代」とも呼ばれ,ジェセル王の階段ピラミッドをはじめ,巨石造建築技術を駆使してファラオのために盛んにピラミッドが造営され,それは第4王朝のギザの3大ピラミッド(クフ・カフラー・メンカウラー3王の王墓)において最高潮に達した。また太陽神崇拝が盛んとなり,第5王朝の諸王は太陽神ラーを王朝の始祖とみなし,オベリスクを神体とする大規模な太陽神殿を建立,ファラオを「太陽神の子(サ=ラー)とする王権理念が確立した。同王朝最後のウナス王のピラミッドの墓室には「ピラミッド=テキスト」がはじめて現れ,世界最古の宗教文学として名高い。また美術も,この時代に,主として国王や王族の葬祭を目的として発達し,彫像や壁画に優れた作品が生み出された。このほか幾何学の発達,太陽暦の採用,ヒエラティック(神官文字)の普及など,古代エジプト文明の基本的な型はこの古王国時代に完成された。
【第1中間期】(第7〜第10王朝,前2181〜前2050ごろ)この時期,王朝は存在しても名のみで,国内は州侯の割拠状態となり,内戦や民衆の蜂起,アジアからの遊牧民の侵入などで社会は混乱,既存の秩序は崩壊して一種の社会変革が進行した。当時の混迷した世相は,この時代に現れた『イプエルの訓戒』などの文学作品によく表されている。やがて上エジプトのテーべ侯メントゥホテプ2世(第11王朝の創始者)がエジプトの再統一に成功,王朝時代第2の繁栄期,中王国時代を発足させた。
【中王国時代】(第11〜第12王朝,前2050〜前1786ごろ)この時代は「テーベ時代」ともいわれ,王家の出身地テーベが旧都メンフィスにとってかわり,政治・経済・文化・宗教の中心として歴史の脚光を浴びることになった。統一後もなお諸侯の勢力が強く,第11王朝はクーデタによって倒されたが,第12王朝第5代のセンウセルト3世(在位前1878〜前1843ごろ)の治世に中王国の最盛期を現出,同王は版図をナイル第2急湍まで広げ,クレタなどとも活発な交易を行い,また次王アメンエムハト3世はファイユーム地方の干拓事業を推進,この地方に広大な沃野を築いた。テーベの市神アメンは国家の主神となり,さらに太陽神ラーと融合してアメン=ラーとなり,新王国時代に一段と栄えることになった。中王国時代はまた,民間人の官吏登用が開かれるなど,民衆の力が認められた時代で,この傾向は宗教や文学にも反映され,宗教面では来世思想(オシリス神信仰)が一般人のあいだに普及,民衆もミイラにされて墓に葬られるようになった。棺の周囲に「コフィン=テキスト(棺柩文)」が記されるようになったのもこの時代である。また文学では俗文学が発達,『シヌへの物語』『難破船物語』『雄弁な農夫の物語』などの作品が残されている。
【第2中間期】(第13〜第17王朝,前1786〜前1567ごろ)第12王朝の崩壊後,第13王朝が成立したが,国内の統一は失われ,それに乗じて東北方から西アジアの混成民族ヒクソスが侵入(前18世紀末),前1650年ころデルタ東部のアヴァリスに拠って王朝を建て(第15・16王朝),以後約1世紀間パレスティナからヌビアにまで宗主権を及ぼした。これによりエジプトは西アジアと密接な開係をもつに至り,西アジアの新しい技術や武器が盛んに導入されたが,なかでもヒクソスがもたらした馬と戦車はエジプトに大きな影響を与えた。やがて軍事力を強化したテーベの第17王朝が国土解放の戦いをおこし,アハメス王がヒクソスの追放に成功,第18王朝を興した。
【新王国時代】(第18〜第20王朝,前1567〜前1085ごろ)第18王朝によって開かれたこの時代は,王朝時代のエジプトが最も繁栄した時代で,再侵略の危険を除くために同王朝の諸王によって繰り返された対外遠征の結果,エジプトは世界帝国に発展,その版図はトトメス3世(在位前1504〜前1450)の治世に,北はエウフラテス河畔から南はナイル第4急湍にまで達し,アメンホテプ3世(在位前1417〜前1379)の治世に全盛期を迎えた。王都テーベは未曽有の繁栄を誇り,そのナイル川東西の両岸には,カルナックのアメン大神殿やプント遠征の浮彫で名高いハトシェプスト女王の葬祭殿をはじめ,多くの壮麗な神殿や葬祭殿,墓が建造され,またアジア進出の結果,ミタンニやヒッタイトなど西アジアの諸国との国際関係が密接となって,テーベは一大国際都市としても栄えた。それとともに国家の最高神として諸王の信奉を集めたアメンの神官団が勢力を増し,政治にも介入するようになった。これを排除するため,アメンホテプ4世(イクナトン,在位前1379〜前1362)はアマルナに新都を営み,太陽神アテンを唯一神とする「宗教改革」を行ったが,結局,王の一代限りで終わり,次王ツタンカーメンの代にアメン信仰に復帰した。イクナトンの「宗教改革」が生んだ「アマルナ芸術」はエジプト美術史上独得の位置を占め,その作風を伝えるツタンカーメン王の墓から出土した豪華な副葬品(1922年発見)は名高い。しかしこの「宗教改革」時代(アマルナ時代)にアジアではヒッタイトの進出によって植民地を失い,国内でも政情不安となって,第18王朝はまもなく崩壊,ラメセスl世が第19王朝を開いた(前1304)。諸王は再びアジアに進出を計り,とくにラメセス2世(在位前前1290〜前1224ごろ)はしばしば西アジアに遠征,前1270年にはヒッタイト王ハットゥシリシュと友好条約を結んだ。王は各地に記念碑的建造物を建立,なかでもアブ=シンベル大神殿とテーベに営んだ葬祭殿(ラメセウム)は有名である。しかし,第20王朝に入り,東地中海域に猛威を振るった「海の民」の侵入からエジプトを守ったラメセス3世(在位前1184〜前1153ごろ)の治世を最後に王権は衰え,やがて末期王朝時代に入った。新王国時代の葬礼文書はパピルスに記され,『死者の書』として柩に納められた。また文学では,『アニの教訓』『アメン・ラー讃歌』『アテン讃歌』などの教訓文学や宗教文学のほか,『二人兄弟の物語』『正義と虚偽の物語』などの作品が知られている。
【末期王朝時代】(第21〜第31王朝,前1085〜前332ごろ)これよりエジプトに異民族支配の時代が始まった。王朝の支配権はリビア入(第22〜第24王朝),エティオピア人(第25王朝)の手に移り,前7世紀には一時アッシリアに占領された。まもなくサイス侯プサンメティコス1世が独立(前663),第26王朝(サイス朝)をおこし,エジプト人による王朝時代最後の繁栄の一時期を築いたが,前525年カンビセスに征服され,ペルシアの属州となった(第27王朝)。第28〜第30王朝期(前404〜前343)に自立したものの,再びペルシアに征服され(第31王朝),ついで前332年マケドニア王アレクサンドロス(大王)に征服されるに至った。
【ヘレニズム時代およびローマ・ビザンティン時代】エジプトを征服後,アレクサンドロス大王はペルシアを滅ぼし,アジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる大帝国(アレクサンドロス帝国)を樹立したが,彼の死(前323)後帝国は分裂,エジプトには,後継武将の一人プトレマイオスl世の建てたプトレマイオス王朝(前305〜前30)が成立,次王プトレマイオス2世(在位前285〜前246)の治世に,ヘレニズム諸国中最大の富強を誇るに至った。アレクサンドロス大王から継承した首都アレクサンドリアの建設もほぼこのころに完成され,天下にその偉容を示した。しかし,この王朝も前2世紀以降衰退に向かい,女王クレオパトラ7世(在位前51〜前30)はカエサル,ついでアントニウスと結んで全盛期の王国の再現を計ったが,前31年アクティウムの海戦でオクタヴィアヌス(アウグストゥス)に敗れ,翌年自殺,王朝は滅亡した。この時代,アレクサンドリアは,王朝の奨励のもとに,大図書館を備えた学問研究所「ムセイオン」を中心に学術の都としても栄え,ことに自然科学の発達がめざましかった。しかし,エジプト文化は神官層を中心に保持され,ギリシア文化の影響はエジプト社会の奥深くまでには及ばなかった。
プトレマイオス王朝の滅亡後,エジプトはローマの属州となり,帝政を始めたアウグストゥスはこれを皇帝直轄の属州として統治,彼をはじめ初期の各皇帝による熱心な経営の結果,農業生産力が著しく向上,またアレクサンドリア市も,前時代にひきつづき地中海世界最大の国際貿易港,工業生産地として殷盛を極めた。しかし,その一方では,帝国の穀倉として富を収奪され,人々は重い貢納や公共奉仕の義務を課せられ,農民はしばしば土地を捨てて逃亡,彼らのこうした抵抗はしだいに慢性的な現象となり,エジプトの経済的疲弊を招いた。395年帝国が東西に二分されると,エジプトは東ローマ帝国(ビザンテイン帝国)の治下に置かれた。
ローマ統治時代にはまた,キリスト教が普及,それとともに古代エジプト文明は終末を迎えた。キリスト教がエジプトに伝えられた時期は明らかでないが,エジプト人は早くから熱心な信者となり,迫害時代には多数の殉教者を出した。451年カルケドン公会義で,エジプト人が奉じていたキリスト単性論が異端とされると,彼らは正統派教会を離れて独自の道を歩み始め,コプト教徒としてエジプトに隠然たる勢力を張り,言語はコプト語を用い,また独特のコプト美術を発達させた。ビザンティン諸皇帝は彼らをしばしば弾圧,やがてイスラムーム教のもとに大征服を開始したアラブ軍の部隊が,639年アムル将軍に率いられてエジプトに侵入して来た時,彼らはむしろこれを歓迎したと伝えられる。その3年後アレクサンドリアはアラブ軍の手に落ち,ビザンティン帝国によるエジプト支配は終わった(642)。
【イスラーム時代】アムルよる征服後,エジプトは約200年間,ウマイヤ朝・アッバース朝の支配下に置かれた。その後,9・10世紀にトゥールーン朝(868〜905)・イフシード朝(935〜969)の独立王朝が建てられたが,チュニジアにシーア派のファーティマ朝(909〜1171)がおこり,969年エジプトを征服,新都カーヒラ(カイロ)を建設してここに遷都(973),シリアやアラビアにも支配を広げ,エジプトはしばらくこの王朝のもとで大いに栄えた。アジーズ(第5代カリフ,在位975〜996)の治世がその絶頂期で,イスラーム学術の牙城アズハル大学の基礎が置かれたのもこのころである。アジーズはまたコプト教会に好意を寄せ,この王朝の時代はコプト教会にとっても繁栄の時期であった。ついで12世紀になると,サラディンがアイユーブ朝(1169〜1250)をおこした。彼はヨーロッパからの十字軍の来襲に対し,反十字軍の英雄として活躍,勇名をヨーロッパにまで轟かせた。またこの王朝の時からエジプトは再びイスラーム正統派に復帰することになった。その後,アイユーブ朝にかわってマムルーク朝(1250〜1517)が約270年間エジプトを支配した。この時代,暗殺・陰謀などの政権争いが多く,政情は不安定であったが,1260年のモンゴル軍のシリア侵入に対しては,これを撃退して中東のイスラーム文化を守り,また国内でもエジプトのイスラーム文化は最高の水準に達した。しかし,この王朝の末期にはいわゆる地理上の発見によって,エジプトは財政的に決定的な打撃を受けた。
一方,このころからオスマン=トルコが勢力を伸ばし,1453年ビザンティン帝国を滅ぼし,1517年にはエジプトもセリム1世(在位1512〜20)に征服されてトルコの属領となり,トルコ人のパシャ(太守)の統治下に置かれることになった(1517〜1798)。
【近代】1789年ヨーロッパでフランス革命がおこり,革命戦争となると,1789年ナポレオンはイギリスのインドへの道を阻むためエジプトへ遠征,それとともにヨーロッパ勢のエジプト侵入の時代が始まり,またトルコの支配下で圧政に苦しんでいたエジプトに,民族的自覚と近代化への動きが促されることになった。3年後ナポレオンはエジプトから撤兵,イギリス軍と協力してフランス軍の撃退に功をたてたムハンマド=アリーは,1805年スルタンからエジプトのパシャに任命され,ヨーロッパ文明を輸入してエジプトの近代化を推進,1841年にはパシャの地位の世襲を認められた。彼の死後スエズ運河開削の問題がおこり,3代目のサイドはその利権をフランス人レセップスに与え,1869年運河は完成した。しかし,その後4代目のイスマイルは財政難に陥り,そのためスエズ運河の持株をイギリスに売却,さらにエジプトの財政がイギリスとフランスの共同管理下に置かれたうえ,1879年には両国の圧迫により退位を余儀なくされた。こうした外国の圧力に対し,「エジプト人のエジプト」を合言葉に,アラビ=パシャが民族主義運動を指導,1882年軍事行動をおこしたが,イギリス軍に敗れ,以後エジプトは事実上イギリスの植民地となり,第一次世界大戦の勃発後イギリスの保護国となった。しかし,大戦中に独立運動が高揚,1916年ザグルールを中心にワフド党が結成され,1919年エジプト全土にわたって反英運動が展開された。この動きを重くみたイギリスは,1922年いくつかの留保条件を付して保護権を放棄,エジプトの独立を承認した。
【現代】1922年ワフド党を中心にエジプト王国憲法が制定され,ファードを国王とするエジプト王国が成立,翌年ザグルールを首相とする民主主義政権が誕生した。しかしイギリスの与えた独立は名目的なものにすぎなかったため,以後議会に優勢を占めたワフド党は,完全独立を求めてイギリスおよびこれと結んだ国王に対して抗争をつづけた。1936年政府はイギリスと同盟を結び,スエズ地帯へのイギリス軍の駐留を容認,国際連盟に加盟した。第二次世界大戦には中立を守り,首都ナハス=パシャは,1945年ユダヤ民族に対抗するアラブ連合を成立させ,国際連合に加入したが,イギリスの支持によって成立した内閣は国民の批判のうちに倒れ,さらに1948年イスラエルの独立に始まる第1次中東戦争での敗北により,エジプトは混乱状態となった。1952年7月,ナギブを中心とする自由将校団がクーデタで王制を倒し,国王ファルークは亡命,翌年ナギブを初代大統領とするエジプト共和国が成立した。しかし革命の指導層内に対立が生じ,1954年ナセルがナギブを追放,独裁的権力を握り,1956年スエズ地帯からのイギリス軍の撤退を実現,同年新共和国憲法を発布,自ら大統領に就任した。彼はさらに同年スエズ運河の国有化を宣言,スエズ動乱から第2次中東戦争をひきおこしたが,運河の国有化には成功,またソ連の援助によるアスワン=ハイ=ダムの建設など,アラブ社会主義による政策を推進した。1958年にはアラブの統一のために,シリア・イェメンとともにアラブ連合共和国を成立させたが,1961年シリアの脱退により解体した。1967年6月の第3次中東戦争(六日戦争)の結果,シナイ半島をイスラエルに占領され,国内情勢が混迷するうちに,1970年9月ナセルは急死した。後を継いだサダト大統領は,1973年の第4次中東戦争以後,反ソ親米路線に政策を変更,1975年にはスエズ運河を再開,1977年11月イェルサレムを訪問し,2年後イスラエルと単独の平和条約を結んだ。このため,エジプトはアラブ世界で孤立し,国内でもイスラーム原理主義者を中心とする反政府運動が高まり,1981年10月6日,第4次中東戦争戦勝記念軍事パレード閲兵中に,サダト大統領は兵士ら4人から銃撃され死亡した。第4代の大統領には,1981年10月14日,ムバラク副大統領が98.46%の信任を受けて就任,翌年4月にはイスラエルからのシナイ半島返還が終了した。
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