●エーゲ文明 エーゲぶんめい
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD
前3千年紀および前2千年紀に、エーゲ海を中心として、その海域の島々や周辺の諸地域に栄えた青銅器文明の総称。クレタ島、キクラデス諸島、ギリシア本土の東部と南部、小アジア西岸の一部(トロイ地方)がおもな地域で、ほかにキプロス島もこの文明とつねに密接な関係にあった。オリエント文明の影響下に発達し、前半はクレタ文明(ミノア文明)、後半はミケーネ文明(後期ヘラディック文明)によって代表される。
この文明の存在が考古学的にはじめて明るみに出されたのは、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけてのことである。まずドイツの考古学者H.シュリーマン(1822〜90)が、1870〜73年に小アジア北西部のヒッサリクの丘を発掘、ここがホメロスの『イリアス』に謳われたトロイの遺跡であることを明らかにし、つづいてギリシア本土のミケーネ(1876)、オルコメノス(1884〜85)を発掘して、「ミケーネ文明の発見者」となった。こうして、ホメロスの世界の発見に夢をかけたシュリーマンの華々しい成功により、ホメロスの英雄叙事詩に謳われた世界は、詩人の空想による虚構の世界ではなく、実際に存在したことが立証された。一方、ホメロスが『オデュッセイア』の中で、そこには90の町々があり、その最大の町クノッソスにミノス王が君臨する、と謳ったクレタ島でも、1900年イギリスの考古学者A.エヴァンズ(1851〜1941)がクノッソスの発掘に着手、それにつづいて各国の研究者により、ファイストス・ハギア=トリアダ・マリア・グルニア・カト=ザクロなど、各所の発掘が相ついで開始された。その結果、クレタ島にミケーネ文明よりもさらに古い文明が発見され、エヴァンズはこれを伝説上の王ミノスに因んで「ミノア文明」と名付け、同時にクレタ島の青銅器時代を、初期・中期・後期の3期に区分し、各時期をさらに第I期・第II期・第III期に細区分する画期的な考古学的編年を確立、エーゲ先史文明の解明に偉大な業績を残した。シュリーマン以後、ミケーネの発掘はギリシア人考古学者に受け継がれ、なかでもCh.ツンダス(1857〜1934)は、1886年から1893年にかけて精力的な発掘活動を展開、多数の墳墓から副葬品を収集して、ミケーネ文明の諸相を明らかにした。ミケーネ文明はこのツンダスによってはじめて学問的に発見されたといってよい。彼はシロス島、ナクソス島その他のエーゲ海の島々を発掘して、ミケーネ文明よりもさらに古い「キクラデス文明」を発見した。
その後、ギリシア本土における先史遺跡の発掘は、イギリス人考古学者A.J.B.ウェース(1879〜1957)やアメリカ人考古学者C.ブレーゲン(1887〜1971)らによって推進されたが、研究の進展に伴って、ミケーネ文明以前からギリシア本土にあった青銅器文明の様相も明らかとなり、それとともに、ギリシア本土で発達した青銅器文明全体の考古学的編年も可能となって、クレタ文明の変遷にほぼ見合う、初期・中期・後期の3期に区分され、その文明は「ヘラディック文明」と命名された(「ヘラディック」はギリシアの古名ヘラスに由来する語で、そのギリシア語の形容詞ヘラディコスの英語形)。この時代区分のうち、後期ヘラディック文明(前1550〜前1100ごろ)が一般に「ミケーネ文明」と呼ばれる。
こうして、19世紀末以来のエーゲ先史考古学の目覚ましい発展により、エーゲ海周辺の地域に栄えた個々の青銅器文明の様相と相互の関連が明らかにされ、これらの諸文明が全体として「エーゲ文明」という一つの名で呼ばれるようになった。
エーゲ文明の編年は、トロイの場合を除いて、エヴァンズの提唱した3期分類法がクレタ島以外の地域にも適用され、「初期」は大体において前3千年紀にあたり、「中期」は前2千紀の前半、「後期」はその後半にあたる。ただし「初期」の絶対年代については学者間の意見の相違が大きい。エヴァンズは初期ミノア文明を前3400〜前2100年ごろとしたが、最近ではその上限は前2600年ごろに置かれ、トロイ・キクラデス諸島・ギリシア本土の青銅器時代もほぼこのころから始まったとみられている。
初期にはトロイやキクラデス諸島が栄えたが、前2千年紀に入ると、クレタ島がエーゲ文明の中心となり、東地中海の海上権を握って繁栄し、中期から後期にかけての第2宮殿時代(前1700〜前1450ごろ)に最盛期を迎えた。またギリシア本土には、前2200〜前2000年ごろ北方から南下して来たギリシア人が、先住民に代わってヘラディック文明の担い手となり、前1600年ごろミケーネをはじめとする小王国を形成、海上に進出して、めざましい活躍を示し始めた。彼らはヒッタイトやエジプトなどの諸王国とも交渉をもち、やがて前1450年ごろにはクレタ島の中心クノッソスを支配下におさめ、以後エーゲ文明の中心はギリシア本土に移ることになった。いわゆるミケーネ文明がそれである。しかし、この文明も、前1200年ごろから東地中海世界を襲った民族移動の波の中で、前1100年ごろに滅び、その後、ギリシア世界は「暗黒時代」と呼ばれる一時期をへて、ミケーネ時代の社会とは異質のポリス社会として再生することになる。
こうして、エーゲ文明はミケーネ文明の崩壊とともに、その後長く地中に埋もれることになったが、その文明の内容は、シュリーマンがトロイやミケーネから掘り出した数々の黄金製品、またクノッソスをはじめクレタ島の宮殿遺跡から出土した陶器や壁画などにみられるように、きわめて豪華で、優美かつ洗練された特性を示し、史上最初の海洋文明として、独自の文明を開花させた。その基盤となった経済力は、ギリシアと小アジアおよびエジプトを結ぶ海上交通の要地を占めていたことからくる。オリーブ油やぶどう酒、陶器などの海上交易の利益によってもたらされ、近年の考古学研究の結果、その交易範囲は琥珀や錫の交易を中心として、先史ヨーロッパ諸地域にも及んでいたことが明らかにされている。
文字はクレタ島で発見された絵文字および線文字AとBの3種類があり、このうち線文字Bはギリシア本土のミケーネ時代の遺跡からも発見され、ことに、1939年ブレーゲンがペロポンネソス半島西南部ホーラ村近傍のエパノ=エングリアノスの丘に発見した。ピュロス王国(ホメロスの英雄叙事詩にミケーネに次ぐ強国として描かれている王国)の王宮遺跡からは、数百枚にものぼる大量の線文字B粘土板文書が出土した。エヴァンズはこれらの文字を「ミノア文宇」と名付け、ギリシア本土における線文字Bの使用は、クレタ人のギリシア本土への進出を示すものであり、その支配下に置かれたことによってギリシア本土にクレタ文明と類似のミケーネ文明が生み出されたと考えたが、第二次世界大戦後の1952年、イギリスの建築家M.ヴェントリス(1922〜56)によって、線文字Bがギリシア語として解読され、その結果、ミケーネ文明の担い手は紛れもなくギリシア人であり、クノッソスにおける線文字B粘土板文書の出土は、反対に、ミケーネ時代のギリシア人勢力のクレタ島への進出を示すものであることが立証され、それまでエーゲ先史考古学界を支配して来たクノッソス中心の見方に百八十度の転回がもたらされた。
このほか、第二次世界大戦後の注目すべき出来事としては、ギリシアの考古学者N.プラトンによる、クレタ島のカト=ザクロにおける「第4のミノア宮殿」の発掘(1962〜)、および同じくSp.マリナトス(1901〜74)による、キクラデス諸島最南のテラ島(通称サントリーニ島)におけるアクロティリ遺跡の発掘(1967〜)があり、ことに後者のアクロティリ遺跡からは、前1500年ごろの同島の火山の噴火によって厚さ数十メートルの火山灰に埋もれた住居趾が、大量の生活用具や、屋内の壁面を色彩豊かに飾っていたフレスコ画なとを伴って発見され、当時のクレタ・キクラデス・ミケーネ3文化圏の交流関係の解明に、貴重な光を投げかけている。