●疫病送り えきびょうおくり
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科学的知識にもとづく医学の未発達の時代に,疫病流行の原因を悪霊のなせるわざと考え,これを丁重に鎮め,送り出すことによって退散させようと行われた呪術。その方法には日本各地にほぼ共通した形式があり,しばしば人形や御幣などを疫神の依代にして,ムラの人々が行列を組んで村内を巡り,松明の灯りや鉦太鼓の音・囃言葉や念仏などの呪言などによって,村境や海へ送り出す共同祈願の方法が多くとられた。ときには,依代として特定の人間が選ばれて送られる例さえあった。形代を伴わない場合でも,藁づと・藁舟・輿・藁馬などを疫神の霊の乗物として同様な鎮送呪術が行われた。疫病は,古くはエヤミ・トキノケと呼ばれ,鎌倉時代あたりからヤクビョウと称されるようになった。疫病は,さまざまな病気のなかでも一時期に同様な病状で次々と大多数の人を侵していったので非常に恐れられた。街路に死骸が累々とする惨状からは,これが悪霊・疫神のしわざであると信じられたのも自然なことだったと思われる。疫病送りの呪法は,すでに平安時代には行われており,江戸時代になってもなお盛んで,随筆類にもしばしば記録がみられる。たとえば『耳袋』には1772年(安永1)京都の風邪の神送りの様子,『塩尻』には1684年(貞享1)長崎から流行した疫病が難波京都に及び,京では人形をつくり疫を送ったとあり,1714年(正徳4)にも同様の記事がみえる。『武江年表』には1733年(享保18)の疫癘(えきれい)大流行時に行われた疫神送り,『噺の苗』には1802年(享和2)大阪市中の風の神送りのことが記録されている。疫病送りは,本来は疫病流行に伴って臨時に行われ,それらが恒常化され年中行事として繰り返されるようになったものだが今日にも伝承されている。行事の日取りがまちまちであるのも,これが元来,臨時に行われた性格のものであったことを物語っている。各地に伝わった行事名を示すと,病送り(ヤンマイオクリ・ヤマイボイ)・疫病送り・疫神送り・はやり神送り・かぜの神送り・咳気の神送り・ボノカミオグリ(ボウガミオクリ)・傷寒坊送り・腹送り・腹の神送り・ハサンバコ(おたふく風邪)流しなどがある。このほか人形送り・人形ボイ・人形祭など,人形を伴うことを示す行事名も多く,行事の日取りからハルマツリとかヨウカオクリの名もみえ,疱瘡神送りも疫病神送りの1種である。行事内容は虫送りの呪法に似ているが,注目されるのは人形などに,人間の身体をこすった餅や団子などをもたせたり,人形の行列が家の前を通るときに,箒で家のなかから掃き出す動作をしたり,各家を払った笹で人形を叩くような例である。六月祓いの儀礼に見られるように祓いの人形に罪や汚れを移転させるのと同じ意味の儀礼である。疫病送りの人形は疫神の形代であるが,同時に村人を代表する身代りの人形(人間の形代)の役割を果たす。疫病送りは,村全体の行事として行われる場合が多く,共同祈願の性格が強い。しかし,個人個人の祓いの性格が加味されていることもあった。村中でつくられる大きな人形のほかに,個人祈願の小さな人形が加わる場合がみられる。山形県最上郡一帯で行われているヤマイオクリの場合がその1例で,村人が共同で大きな藁人形をつくり,これを親人形と称して村境の川などへ送り出す。同時に各家でも小さな藁人形をつくり門口などに立て疫神の侵入を防ぐ行事である。疫病送りの対象は,疫病流行の原因と考えられた悪霊であったが,さらに悪霊の統率者的な性格をもつ疫神を送るという考えが発達する。とくに政治的な策謀などによって失脚し,この世に怨恨を残したまま死んでいった人の霊魂が非常に強力な祟りをなす御霊として恐れられ,疫病の大流行に際して,しばしば疫神として送り出される対象とされた。疫病送りは,京都のような都市で盛んに行われ,御霊信仰・天王信仰の発展に伴い,祇園御霊会はのちの祇園祭にまで進展して,全国の夏の行事に影響を与えた。