●永楽帝 えいらくてい
アジア 中華人民共和国 AD1360 元
1360〜1424 明朝第3代の皇帝(在位1403〜24)。姓名は朱棣,諡は文皇帝。廟号は太宗,世宗のとき成祖と改称。太祖の第4子で,母は孝慈皇后馬氏であるという。皇后は徐達の長女。元号によって永楽帝と通称する。11歳で燕王に封じられ,10年後に北平に着任した。兄の晋王朱棡とともにモンゴル族防衛の責をよく果たし,太祖の頼みにしたがってその期待に応えた。太祖の死によって即位した嫡孫建文帝は,斉泰・黄子澄らの削藩の議をいれて諸王権力の弱化をはかったが,その目標が自己にあることを察知した燕王は,1399年(建文1)7月,僧の道衍(のち還俗して姚広孝)の勧めをいれて靖難の師と称して挙兵した。内乱4年ののち,1402年(建文4)燕王は首都南京に建文帝を滅ぼして即位し,祖法を継承すると宣言して建文帝一代の事跡をすべて「革除」してその年を洪武35年とした。翌年を永楽元年とした成祖は,「君側の奸」として斉泰・黄子澄とその一族を誅殺し,さらに靖難の変を「燕王簒位」と非難した方孝嬬とその一族門弟を処罪して帝位の保持をはかった。自ら先例となるべく,即位後慎重に移封や太和山復興を名目とした諸王対策を進めた成祖は,太祖以来の君主独裁権を強化するとともに,大学士解縉らを内府の文淵閣において政治顧問としての内閣の制を創設し,靖難の変に果たした宦官の役割を評価して,彼らに対する識字の禁を解いて外交使節・鎮守・監軍などの職務に重用した。1420年(永楽18)には,彼らに東厰を掌管させて特務機関とし,後世の宦宮寵用への道を開いた。また,儒者などへの対策として大規模な図書編さん事業を計画し,解縉・道衍らに『永楽大典』・『四書大全』・『五経大全』・『性理大全』・『歴代名臣奏議』などを勅撰させたが,かえって朱子学の固定化を招いた。1403年の永楽改元とともに北平を北京順天府と改めて首都として行在と称した。1411年(永楽9)に大運河を改修して江南の食糧を北方に運ぶ途を確保し,紫禁城を完成させて1421年(永楽19)l月に遷都した。北辺防備に関して強力な布陣でもあったが,のちの北虜の禍や清の入関にみられるように,かえって首都の脆弱さをみせることになった。なお,遷都後も南京応天府には諸官庁をそのまま残し,たとえば行在吏部・南京吏部のように称した。彼は民政にはとくに意を用い,賑恤,刑罰の厳正,貪官汚吏の処置などに公正を期した。燕王時代からの積極的な対外政策は,帝位についてからも継続された。北元の遺裔のタタール部とオイラート部との対抗に乗じて1409年(永楽7)に出兵して大敗したあと,翌年から成祖がその帰途に楡木川で病没するまでに,〈五出三犂〉と俗称される親征をくりかえしてタタール・オイラートを従え,モンゴリアの制圧に成功した。この遠征に際してタタールに内応したウリャンハイを攻め,つづいて満州侵略をすすめた。1403年に南満州に建州衛を,北方にウジョ衛を置き,黒龍江とアムグン川との合流点に1411年(永楽9)にヌルガン都指揮使司を設け,1413年(永楽11)に永寧寺を建て,宦官イシハらを送って女真族を帰順させた。南海に対しては,1406年(永楽4)ヴェトナムに大軍を出して交趾布政使司をたててこれを直轄領とし,1413年には貴州布政使司を置いて苗族統治を果たした。太祖時代の13布政使司を15に拡大したのである。また,宦官の鄭和・王景弘らに命じて,1405年(永楽3)以来,次の宣宗時代の1433年(宣徳8)にかけて計8回の南海遠征を行わせ,30余国を招撫した。その一隊は遠くアフリカ東岸にまでいたった。馬歓の『瀛涯勝覧』,費信の『星槎勝覧』は,随行者によるこの遠征の産物である。日本に対しては,足利義満とのあいだに国交を回復して勘合符による朝貢貿易を促し,1419年(永楽17)には望海堝で倭寇を大敗させた。成祖は太祖の遺業を継いだといわれるが,とくに版図と通商圏の拡大などの外政に威を振い,太祖の内政貢献と相まって明朝の基礎を確立したといってよい。ただし,宦官に政治関与の道を開いたことは,漢・唐と並んで明は宦官に滅んだといわれる原因をつくった。
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