●衛所制 えいしょせい
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中国。明代の軍事制度。唐の府兵制を範とする兵農一致の軍事編成で,明代軍事体制の中核をなす。衛所には,兵部属下の親軍衛,五軍都督府属下の京衛,各都指揮使司属下の外衛の3種があり,外衛が衛所制の基幹をなした。外衛の軍兵には,屯軍(軍屯の耕作に従事する兵)・運軍(漕運に従事する兵)・戌軍(守城・巡廻に従事する兵)・班軍(都に交替に上って勤務する兵〈番上〉,辺境に交替で勤務する兵〈番戌〉)などの種類があった。衛所の活動形態は,戌軍による守備活動としての守城(捕盗・辺防・海防を含む)と衛所の経済的基礎をなす屯田行為とが基本であったが,実際には,この基本的類型の衛所だけではなく,そのほかに漕運活動・班軍活動のいずれかを,あるいはその両方を担っている衛所が多かった。したがって,衛所の支配的な機能的形態は,[1]守城・屯田[2]守城・屯田・漕運[3]守城・屯田・班軍[4]守城・屯田・漕運・班軍の4類型に集約され,それぞれ時期的な変化はあったとしても,衛所活動の基本的な骨格は,このような4類型として把握される。衛所の軍兵は,太祖起兵時の基本部隊(従軍または従征という),明初削平された群雄の部隊および元の降軍(帰付または投付という),罪を犯して軍におとされたもの(謫戌という),民間の一家五丁あるいは三丁より一兵を徴兵したものなどの方法で集め,軍戸として軍籍につけ,月糧・行糧などの軍餉を受けた。外衛は,府・州・県・関などに置かれ,都指揮使司に属したが,その都司は,中央の五軍都督府に属し,その五府は,また皇帝直属の兵部の命を受けた。親軍衛は,侍衛・宮城守備・皇陵護衛・皇城巡察などの任にあたり,兵部に属した。太祖は,漢の南軍,唐の北衙禁軍にならって錦衣衛など12の親軍衛を設け,永楽帝は広く天下の精兵を選んで親軍に編入したため22衛となり,さらに宣徳帝のとき,武驤左衛・武驤右衛・騰驤左衛・騰驤右衛の4衛が組織されて,親軍衛に編入され,その強化がはかられ,国王ならびに京師の護衛にあたった。京衛は,35あり,当初いずれも平時においては,常設的営を組織することなく,わずかに調伐に際してのみ,一時的に営を組織するにすぎなかったが,永楽朝以後は班軍番上する外衛とともに京師において京営を組織することになった。京衛は,太祖が漢の北軍,唐の南衙禁軍にならって御中軍という旗軍を設け,宿衛護衛の任にあたらしめたのが,その起源である。初めは王府下の都鎮撫司に隷属したが,のち直接五府に隷属した。以上の衛所制は,1364年(至正24)に太祖が挙兵以来の軍制を改め,武徳以下17衛親軍衛指揮使司が設けられたことに始まり,1374年(洪武7)ころ整備された。衛は指揮使(長官)のもとに5千戸所(5,600人),千戸所は千戸のもとに10百戸所(1,120人),百戸所は百戸のもとに2総旗・l0小旗(総旗は5小旗,小旗は兵10人を率いており,百戸所は112人からなる)で構成されたが,この指揮使・千戸・百戸などのほかに,衛所には指揮同知・シキセンジ※注1※・副千戸・衛鎮撫・試百戸・所鎮撫などの職があり,いわゆる衛所官として,衛所の運営にあたっていた。こうした衛所官が軍籍についた理由や出身地,世襲の時期・年齢・続柄,職の昇降などについては,『衛選簿』に具体的に記載された。現在伝存する『衛選簿』には,『玉林衛選簿』ほか13種,山西省,陝西省,遼東都司のものがある。この衛所制も,明の後半には制度の弛緩,軍屯の崩壊,逃兵,私兵の増加など諸種の原因によって衰微し,明末にはまったく無力化した。〔参考文献〕山崎清一『明代兵制の研究』歴史学研究,11−11・12,1941
川越泰博『明代衛所官の都司職任用について』中央大学文学部紀要,史学科24,1979
川越泰博『明代衛所官の来衛形態について』『アジア諸民族における社会と文化』1984,国書刊行会
解毓才「明代衛度興亡攷」『明代政治』1968
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