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●嬰児殺し えいじごろし

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 出生後まもない幼児を殺す慣習。嬰児殺しは子どもが母親の胎内から出たのちに殺されるものであるから,母親の胎内にいるうちに始末される堕胎と区別して考えなければならない。よく知られているのは,ポリネシアのマルケサス諸島や南インドのトダ族の事例であろう。トダ族では,女児を殺すこの慣習の結果,全人口800人のうち男性の人口の方が女性より100人近くも多かったという。進化論の支配的であった19世紀には,食糧獲得の困難のためにトダ族のような嬰児殺しの風習が古代社会では普遍的な制度であった,という主張があった。その最も代表的な人は,この問題に初めて取り組み,体系的に論じたマクレナンである。彼は,チベット人トダ族のような幼女の嬰児殺しの風習が古代社会の普遍的な制度であったという前提から,さまざまな民族のあいだにみられる外婚制,掠奪婚一妻多夫婚のような慣習を説明し,婚姻制度の発達段階を理論的に跡付けようとした。つまり彼は古代の嬰児殺しの風習の結果として部族内の女性が僅少になり,そのため外婚制,掠奪婚一妻多夫婚などの風習が生じたと考えたのである。先に指摘したように,彼は嬰児殺しの発生理由を古代の食糧獲得の困難に求めた。確かにこの慣習には,限られた生態学的諸条件のもとで人口を一定数に抑制するという効果はあるが,それが古代社会に普遍的な制度であったかどうかについては,現在,疑問視されている。技術的に単純な社会の多くにこのような慣習が必ずしも行われていないし,また食糧獲得に支障のない社会であっても,たとえば古代スパルタのように,優生学的な理由から嬰児殺しを行ったような民族もある。また,技術的に単純な狩猟採集民は,かつて考えられていたほど食糧獲得の困難な人々ではない。いずれにせよ,嬰児殺しの多くは,社会的・宗教的な要因が大きく働いて生じる現象であると考える方が現実に近い。多くの社会では,出生は神霊または悪霊の作用によると信じられているので,そのような霊魂観にもとづく幸と不幸,浄と不浄,吉と不吉の諸観念から,逆児や双児のような異常児の出生を忌み嫌い,さらにはこれを殺す民族も少なくない。殺し方も,地に埋めたり,村の四辻に捨てたり,飢死させたり,あるいは母親が自分の初生児を地面に叩きつけて殺す,などの例が報告されている。わが国にも江戸時代に“間引き”という風習があり,生まれた子どもを窒息死させたり碾臼(ひきうす)で圧殺したりしたことはよく知られている。ニューギニアのバナロ族の場合には,特定の集団同士で互いに女性を交換しあう規則があり,交換する娘の数の均衡を保つために嬰児殺しが行われた。このように嬰児殺しの慣習の多くはきわめて社会学的現象であり,またマクレナンが考えたように古代だけのものでもない。それは世界のあらゆる地域,あらゆる時代から報告されている。事実,マクレナンの生きた時代の少し前のヨーロッパでも,直接・間接の嬰児殺しが存在した。望まなかったのに生まれた子どもは毒殺されるか飢死させられ,多くは事故死という形で処理された。一説には,18世紀のロンドンをはじめとする諸都市の街や教会の前に嬰児の死体が転がっているのは珍しい光景ではなかった。のちに国が介入して幼児を収容する施設がつくられたが,費用不足のため政府もその施設を支え切れず,〈愛護施設は事実上の屠殺場に早変わりした〉のである。ロンドン初のその施設には1751年〜60年のあいだに1万5,000人の入園者があったが,そのうち思春期まで生きのびたのは4,400人にすぎなかった。フランスでも1824年〜33年のあいだに合法的に遺棄された子どもが34万人近くもあったが,この施設に入れられた子どものうち80%〜90%が入園した最初の年に死んだという。

 最近日本で騒がれる嬰児殺しの典型はコインロッカー=ベービーである。当時の西欧の施設は,“コインロッカー”の元祖ともいえるものであった。